映画最高!(Cinema + Psycho)

映画に関するあれやこれやについて綴っていきます。映画の感想をメインに、映画にまつわるエピソード、そしてワンポイント心理学を紹介していきたいと思います。

映画「哀れなるものたち」感想 ―原作との比較で見えてくる"哀れなるもの"とは―

 

「哀れなるものたち」概要と感想

スコットランドの作家アラスター・グレイの同名小説の映画化。
偏屈な天才外科医のゴドウィン・バクスターは、ある日、入水自殺を図った女性の検屍を依頼される。
この女性が妊娠していることが分かり、ゴドウィンは胎児の脳を母親の体に移植して蘇生させる。ベラと名付けられたこの女性は急速に成長していくが、やがて外の世界を見たいという好奇心が強くなり・・・。

監督は、「ロブスター」「女王陛下のお気に入り」のヨルゴス・ランティモス
主要なキャストは、エマ・ストーンウィレム・デフォーマーク・ラファロ、ラミー・ユセフ、他。

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

同監督の作品は、「ロブスター」「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」「女王陛下のお気に入り」と鑑賞していますが、特に「ロブスター」「聖なる鹿殺し」は独特な世界観や設定が映画ファンの間でも大いに話題でした。

本作は入水自殺を試みた女性が妊娠をしており、その検屍を依頼された外科医が、実験的に胎児の脳を母親の体に移植して蘇生を試みることが物語の発端となっています。これはまさに「フランケンシュタイン」の世界ですが、単純に死者を蘇生させようというのではなく、子どもの脳を母親に移植させるというところは特徴的です。
かくして誕生した頭は子ども、体は大人のベラの著しい成長過程を"観察"していくというのが基本的な構成になります。

この作品の原動力ともなっているのが、エマ・ストーン扮するベラの存在感でしょう。
ゴドウィンが医学生のマックスを連れて自宅にやってきたときに、初めて"生まれたばかり"のベラと遭遇します。ロボットのようなぎこちない動き、たどたどしい発話、そして食器を叩き割ったり癇癪を起こしたりとまさに子どもそのままです。
その後、彼女が最初に興味を持つのが性的な関心になります。本作がR18に指定されている要因もまさにそこにあるのですが、ヨルゴス・ランティモス監督の作品は全体的にこうした性的描写を取り入れる傾向が強いということもあるのですが、それ以上に子どもの知性あるいは理性で大人の体を持ってしまったことの弊害として描きたかったのかもしれませんね。
 その後、外界への興味(と性欲)が抑えきれずに、弁護士のダンカンと"駆け落ち"をして、熱烈ジャンプをしながらも、食欲、知識欲も芽生えていきます。パリに降り立つころには立ち居振る舞い、知識、教養とどの面を見ても立派な英国淑女になっていて、この変化を巧みに演じ分けているエマ・ストーンアカデミー賞主演女優賞の候補となるのは大いに頷けます。

 それからベラの、ひいてはこの映画の世界観を表現している美術も目を見張るものがあります。映画で具体的な年代の話が出ていたかは定かではないのですが、原作では19世紀後半に設定されています。映画でも確かに今から100年以上前のヨーロッパのようでもありながら、近未来のようにも見える絶妙な雰囲気を醸し出しています。
そして、撮影にもこだわりを感じるポイントが随所に存在しています。本作は最初はモノクロ映像でスタートしますが、ある瞬間からフルカラーに切り替わります。これはベラの好奇心がまさに爆発的に開花した瞬間を表しているかのようです。
カメラも時折、魚眼レンズのように四方が歪んだ形で映像を捉えます。これはまさに顕微鏡で対象物を覗いているような視点になっていて、ベラの成長を観察しているという印象を増幅させています。
 あとは音楽ですね。こちらもまた映像と同期するかのように歪んだ不協和音を奏でています。

ジャンルで言うといわゆるアート映画に分類されるであろう本作、さらには過激な性的描写のためにR18指定にもなっているということで非常に見る人を選ぶ作品になってしまってはいますが、1人の女性の成長物語として完成度の高い作品にはなっておりますし、ヨルゴス・ランティモス監督の代表作になることは間違いありませんので、ぜひご鑑賞ください!

 

 


「哀れなるものたち」原作と映画の違い(微ネタバレあり)

レビューに当たって原作本も読んでみましたので、原作と映画の違いについていくつかピックアップしてみたいと思います。なお、若干のネタバレが含まれる可能性がありますので、未見の方は読み飛ばしていただくことを推奨します。

まず原作は、作者のアラスター・グレイ郷土史研究家から、マックスの著書を原本とした作品を執筆、出版することを依頼されるという形で始まっていて、このマックスの著書が映画の本筋に該当する部分になっています。
原作ではさらにその後、マックスの著書に関して、ベラが自分の子孫に向けて、読まれるか読まれないかわからない前提で、その記述の真偽について書かれたものが続く、という形式になっています。このあたりは、タイトル(タイトルは原作者がつけたことになっている)でもある「哀れなるものたち」とは誰を指すのかに関わってきそうです。

自分が一番大きく違っていると思った点は、ベラがダンカンと駆け落ちする前の部分です。
原作では、その前にゴドウィンとベラが世界中を旅して回っているという記述があります。
なのでマックスと婚約する段階ですでにベラは知識や教養の面ではかなり成熟した状態になっています。映画では、ゴドウィンはベラを外界に触れさせることに慎重になっている印象でしたが、原作ではそのような印象がなく、むしろ積極的に好奇心を外側へ向けさせている印象すらあります。
映画におけるベラは、ゴドウィンに対しては創造主としての敬意ぐらいにとどまっている印象ですが、原作ではより深い愛情を直接的にも表現しています(原作には彼女自身の記述があることで明らかになっているとも言えますが)。

2点目は、上記とも関連するのですが、マックスとベラの接点です。
映画ではマックスがゴドウィンに声をかけられてからそのままずっとゴドウィン家に住み込みでベラの観察を手伝っているのですが、原作ではこの間にかなりの時間のインターバルがあります(この間にゴドウィンはベラを連れて海外旅行にも行っている)。

3点目は、フェリシティの存在です。
映画では、ベラが不在の間にゴドウィンとマックスは同様の実験体としてフェリシティを自宅で育て、観察をしています。原作にはフェリシティは登場していません。

4点目は、作品のスポットを当てられている範囲です。
映画では、とにかくベラの半生ということになるのですが、原作ではスコットランド、イギリス全体の医学界、はたまた国の未来についての憂慮などもあり、ゴドウィン、そしてベラがいかに先見の明を持っていたかが明らかになっています。

その他、細かな違いはたくさんあるのですが、今回主に取り上げてみたい違いだけ記述してみました。

 


比較することで明らかになる差異(微ネタバレあり)

実験でも観察でもそうですが、何らかの効果や影響を調べるためには、比較が必要になります。
本作ではこの比較がいくつかの場面で効果的に用いられています。

まずはゴドウィンがベラを創り出したのは、もちろん死者を蘇生させる医学的にはタブー視されるものへの挑戦などもあったかもしれませんが、それ以上に、社会の通念や価値観などを押し付けられないで育った人がいかに優れた人物になるかを証明したかったのではないでしょうか。
ゴドウィンは自分で子どもを作れない体質のため、かつて父親がしたように自分の子どもを実験対象にすることはできない。そんな中でベラ(ヴィクトリア)の検屍をすることになったのはまさに絶好の機会だったのでしょう。

そして映画オリジナルのフェリシティもまた、ベラとの比較対象となる存在です。
ベラが不在となってゴドウィンとマックスは新たにフェリシティという女性を実験対象とします。
彼女の出自などは詳しくは説明されなかったと思いますが、おそらくはベラと同様なのでしょう。
ただ明らかにベラほどの知性を感じさせない状態に留まっています。これにはゴドウィンやマックスの愛情のかけ方などに違いがあった可能性もありますが、それ以上に、やはりベラは自身の持っていた才覚や好奇心などによってあのような成長を遂げたのではないでしょうか。ベラを女性とか、実験対象とかではなく、一個人として優れた人物であることを示しているという印象を持ちました。

マックスとダンカン、アルフレッドもまた実に対照的です。
ルフレッドについてはネタバレになってしまうのですが、ベラの母親というか元の体はヴィクトリアという女性なのですが、その夫になります。アルフレッドの元から逃げ出して入水自殺を図ったということになっています(原作ではそのあたりのエピソードもしっかり書かれています)。

マックスはベラと婚約をするのですが、その直後にダンカンと駆け落ちをします。
マックスはベラを一人の女性として愛しているのに対し、ダンカンは最初は一時の遊び相手としか考えていません。
その後、パリで一文無しになってしまったベラは娼婦として働くのですが、ダンカンは自分が愛した人がそのような職業についたことを批判するのに対し、マックスは娼婦になったことで複数の男(ダンカンも含む)に抱かれたことに嫉妬をします。
ダンカンの中だけでもベラに対する捉え方が序盤と終盤でかなり違っているのもまさに彼女の変化の現れでしょう。
そしてアルフレッドはあくまでも彼女を自分の配偶者、と言えば聞こえは良さそうですが実質は所有物とみなしている印象です。アルフレッドの顛末も映画オリジナルですが、ここにもまた比較が描かれています。このように全体を通して比較対照を映し出すことで、この映画の実験的要素を強調しているとも言えます。


誰が「哀れなるものたち」なのか ―タイトルの意味についての考察―(ネタバレあり)

タイトルの「哀れなるものたち」は、原作においては原作者がマックスの著作物を出版する際につけたことになっていて、その理由としては、マックスの著作物内でベラがしきりに「哀れな・・・」と口にしているからとしています。つまりはベラの視点で捉えたものであることが分かります。
映画でも明らかな哀れなるものは、まずはダンカンでしょう。駆け落ちの初期の段階では自分が優位に立っていると思ったのがいつしか形勢逆転して、名誉もプライドも財産も失ってしまうのですから、まさに哀れな存在に映ったのでしょう。
そして、アルフレッドもまた哀れなるものです。映画ではあまり描かれていませんが、過去の栄光に囚われ、男尊女卑で昔ながらの家柄や慣習に固執しています。
原作だとさらにマックスもまた哀れなるものと捉えているような記述も出てきます。
確かにベラの急速な成長、進化を考えれば、あらゆる人が哀れなるものに見えてくるのかもしれません。
一方、別の視点でも捉えることができます。ベラは赤子の脳に母親の肉体という形で誕生しているので、マックスと出会った初期の頃はその成長が追いついていません。あたかも何らかの知的な障がいを持っているように映ります。またゴドウィンもその見た目から周囲に避けられたり怖がられたりする存在でした。傍から見れば哀れなるものたちはこの2人のようにも見えるのですが、それが最終的には崇高な存在となっていくので、映画の前半と後半で気持ちの良い逆転現象を見られるのも本作の醍醐味であると言えます。

また、poor thingsという原題から、哀れなるものたちの、"もの"が必ずしも人物ではない可能性もあります。日本語でも、"もの"は人物を指す"者"と、様々な物体などを指す"物"が含まれるので、この邦題も素晴らしいと思いますが、thingとなるとさらに幅広く、何らかのこと、事態、考え方なども含みます。
誰かというよりは本作全体を通じて出てくる旧態依然とした考え方、生き方、そういったもの全てに向けて、哀れなるものとしているのではないでしょうか。

 


ワンポイント心理学 ―発達心理学

心理学の分野で発達心理学というものがあります。これは人間(動物まで含むこともあります)の生まれてから死ぬまでの様々な心身の変化を対象とした心理学のことです。
身体的な発達で言えば、生後6ヶ月ぐらいからはいはいができるようになり、1歳になる頃までにつかまり立ちができるようなり、1歳半~2歳頃には歩けるようになります。
言語的な発達で言えば、1歳以前は、「あー」「うー」「ばぶー」などの意味をなさない発話のみで喃語(Babbling)と言われています。その後1歳半~2歳頃に、「パパ」「ママ」「ブーブー」などの意味のある言語の発話が出てきて、これらはいわゆる初語と呼ばれています。これが徐々に動詞なども組み合わさってきて2語文、3語文と形成されていきます。
認知的な発達はそれらと比較してかなり早く、生後一週間ほどで視覚刺激の区別をつけられると言われています。映画でも途中からカラーに変化しますが、色覚の発達は2、3ヶ月程度で赤、黄、緑などの代表色を識別できるようになり、4,5ヶ月たつとほぼ大人と変わらない色覚が身につくとも言われています。
もちろん本来であれば身体的な成長と心理的な成長は並行して進んでいくのですが、ベラの場合は身体的な成長はほぼ終了している状況で脳が1から成長していくというので、ゴドウィンならずともどのような成長過程を遂げるのかは興味深いところですね。