映画最高!(Cinema + Psycho)

映画に関するあれやこれやについて綴っていきます。映画の感想をメインに、映画にまつわるエピソード、そしてワンポイント心理学を紹介していきたいと思います。

映画「四月になれば彼女は」感想 ―映画に、恋に、川村元気に期待するもの―

 

「四月になれば彼女は」概要と感想

 川村元気の同名小説の映画化。婚約者との結婚を間近に控えていた主人公が、かつての恋人からの手紙に戸惑いながらもかつての初恋の記憶を思い出し、愛や結婚について考え直していくラブ・ストーリー
 監督は米津玄師の「Lemon」をはじめ多くのミュージック・ビデオを手掛け、本作が長編映画デビューとなる山田智和。出演は、佐藤健長澤まさみ、森七菜、仲野太賀、中島歩、河合優実、ともさかりえ竹野内豊、他。

 精神科医の藤代(佐藤健)は、弥生(長澤まさみ)との結婚を間近に控えていた。そんな折、藤代のかつての恋人・春(森七菜)から絵葉書が届く。学生時代以降疎遠になっていた彼女からなぜ今ごろになって連絡が来たのか戸惑いつつも、当時の記憶が蘇る。そんな折、弥生がいなくなってしまう・・・。

 

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

 

 前年から映画館では大々的に予告編が流れていて、本格的なラブ・ストーリーとしての期待が高まっていましたが、個人的には肩透かしというか少し残念だったというのが正直な感想です。その一つの要因として、本作はそもそもいわゆる王道的なラブ・ストーリーではなかったということです。主人公の藤代から見て、現在の恋人の弥生、そしてかつての恋人だった春と構造としては三角関係と言えなくもないですが、リアルタイムで進行しているわけではありませんし、それが原因で藤代が葛藤しているわけでもありません。
 原作は未読ですが、あらすじや読まれた方のレビューなどを見る限り、藤代がいなくなった弥生を探す過程で、春との恋の記憶を思い出しながら、本当の愛とは何かを模索していく、そんな物語と見受けました。映画でも藤代と弥生は結婚を間近に控えているのに、どこか達観しているというか淡白な印象がありました。ただ、藤代が「これも愛の形」だと影響を受けるには、その周囲の人物の情報があまりにも少なく、触媒となりえていません。

 藤代と弥生がよく行っていたバーの店長タスク(仲野太賀)は、藤代がざっくばらんに話ができる相手で、どうやら同性愛者であるということが匂わされていますが、そのエピソードはそれ以上は知らされません。弥生の妹・純(河合優実)は、藤代に対して「姉のことを全然分かってないんですね。」と責めますが、それ以上の役割を果たしていません。原作では、恋愛に関しては自由奔放で、以前藤代に言い寄ってきたこともあるらしいのですが、映画ではそのあたりは一切描かれません。そして、藤代の職場の同僚(先輩?)の奈々は、弥生のことも知っていて色々相談に乗ってくれますが、彼女自身は離婚歴があってシングルマザーである以上のことは分かりません。彼女の設定は、原作では藤代の後輩で、美人でモテるのにとある理由があって恋愛をしなくなった人として描かれています。もちろん映画の尺の問題もあるのでしょうが、わざわざ改変までして登場させた割には重要なパートであるという印象を受けませんでした。このように、藤代、弥生、春以外の人物描写が最小限に絞られてしまっているため、藤代の恋愛観や結婚観に影響を与えるのには不十分でした。

 藤代と弥生、そして春の3人によりスポットを当てて描く、ということももちろん念頭には置かれているのでしょう。ただそこに限定したとしてもいろいろと違和感が残ります。藤代と弥生は結婚を間近に控えたカップルで同棲もしているけど、セックスレスで寝室も別々になっています。その状況で春から絵葉書が届いたことで弥生はいなくなってしまうのですが、藤代が弥生を不安にさせるほどの冷めた感じかと言えばそんな雰囲気はありませんでした。2人で結婚式場の下見にも行っているし、弥生の誕生日になった瞬間にワインで乾杯もしています。そして誕生日の当日には素敵なレストランも予約してくれています。春の絵葉書を気にしたということも考えられなくはないですが、藤代は春からの知らせを喜ぶよりも正直戸惑っているという印象でしたし、絵葉書のことを弥生に隠しているでもなく、弥生も自分から「何人目の彼女?」と聞いたりもしています。弥生がかつて婚約解消したことがあり、それが原因で不眠症になり、藤代の精神科に掛かったという経緯があるので、弥生にそうした精神的に不安定な部分はあるとしても、藤代からすれば弥生の失踪は青天の霹靂だったとしか思えません。
 藤代と春の関係はどうだったのでしょうか?藤代と春は大学時代の写真部で出会い付き合っています。学生時代の恋らしいピュアなエピソードもちらほらありますが、燃えるような大恋愛という印象は抱きませんでした。2人が別れるきっかけとなった出来事は描かれていますが、明確に別れるシーンは描かれていません。その後、弥生との出会い(不眠で診察に来るシーン)の際に、「7年恋愛できていない」と言っていたので春のあとに彼女はいなかったことからも、春との恋愛を引きずっていたと解釈はできなくもないですが、映像からはそれがあまり伝わってきませんでした。藤代と春の関係性の変化に至る設定は原作からは変更されているようですが、それが功を奏したという印象もありません。

 

期待値とスケール感

 結局のところ、本作が描いているものは、「愛とはなんぞや?」の押し問答であり、だいぶ落ち着いてきた大人のオフビートな恋愛という風情なのです。ただ、主演の佐藤健と言えば、Netflixのドラマで話題になった「初恋」の印象がありますし、長澤まさみも「世界の中心で、愛をさけぶ」のようなド直球の恋愛映画に出演もしています。本作はこの2人の初共演ということで、否が応でも期待値が高まってしまっているのです。
 さらには、劇中にも出てきますが、ウユニ塩湖、プラハ、そしてアイスランドのブラック・サンド・ビーチと、旅行好きならずとも一度は耳にしたことのある世界の絶景が予告編でも映し出されているのです。藤井風の主題歌「満ちてゆく」もこの絶景をバックにしても何ら劣らないスケール感の楽曲に仕上がっているのです。なので予告編を見た人で原作が未読の人であれば、いなくなってしまった彼女を追いかけて、かつての恋愛で行くはずだった世界を巡るんじゃなかろうか、そんな期待感を持って劇場に駆けつけてしまうことになります。そう思って観ると描き方としては至って地味な雰囲気のある作品なので、思わぬ肩透かしを食らったということになります。
 このあたりは予告編の作り方の問題もあるのかもしれませんが、当然映画の存在を知らしめて、かつ映画館まで観に行きたいと思わせるということを考えるのであれば、本作のように壮大なシーンを切り取って期待感を高めるということは一つの手段と言えるかもしれません。ただ、世間の評価や評判を確認してから見に行く人の食指が動くかは、やはり作品の内容だったり完成度だったりが物を言うわけで、本作にはそうした第2、第3の波につながる要素が少なかったため、初動での動員数が伸び悩んでしまったこともあり、興行的には厳しい結果が予想されることとなってしまったのかもしれません。最近では、徹底して事前情報を出さずに公開までこぎつけた「THE FIRST SLUM DUNK」や「君たちはどう生きるか」がヒットしていることもあり、映画予告のあり方も変わってきているのかもしれませんね。

 


川村元気の携わった映画作品

 今や日本映画界における稀代のトッププロデューサーとも言える川村元気ですが、彼の携わった作品を見ていきましょう。いくつか傾向があるような気がしますので、その傾向ごとにパターン分けをして記載していきます。

 

パターン1:話題先行のネタ系映画
 最初に関わった作品が、「電車男」ですね。ネットの掲示板のエピソードを元にした映画化でしたが、ようやくパソコンが当たり前になってきた時期でタイムリーさもあり映画も大ヒットを遂げました。次が、前回の記事でも触れた「スキージャンプ・ペア ~Road to TORINO 2006~」です。当時見たときはこれが川村元気プロデュースとは知りませんでした。3作目が「サイレン FORBIDDEN SIREN」で、人気ホラーゲーム「サイレン」の映画化です。この3作だけだったら「電車男」の一発屋という印象だったかもしれませんね。

 

パターン2:人気コミックの映画化
 人気コミックが原作の映画で最初にプロデュースしているのがあだち充原作の同名コミックの映画化「ラフ ROUGH」でした。長澤まさみ市川由衣の共演っていうだけでもうね。そして企画として名前を連ねている「デトロイト・メタル・シティ」です。その後、久保ミツロウの「モテキ」、小山宙哉の「宇宙兄弟」、岩明均の「寄生獣」、大場つぐみ小畑健の「バクマン。」と原作ともども話題となった作品が多く、映画として見たときの満足度も高かった作品が多い印象です。他にも「ドラえもん のび太の宝島」「ドラえもん のび太の新恐竜」でドラえもんの映画も2度脚本を務めています。

 

パターン3:新時代の日本アニメ映画
 細田守監督の「おおかみこどもの雨と雪」、「バケモノの子」、「未来のミライ」、「竜とそばかすの姫」、そして彼の名前を世間に、世界に知らしめた新海誠監督の「君の名は。」、「天気の子」、「すずめの戸締まり」のプロデュースですね。特に「君の名は。」では、このタイトルの決定だったり、その後の作品でも起用されているRADWIMPSの音楽を結びつけたことでも話題でした。川村元気の真骨頂といったところでしょうか。

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗
Amazon

 

パターン4:2文字タイトルの傑作たち
 湊かなえの原作を中島哲也監督、松たか子主演で映画化した衝撃のサスペンス「告白」、そして吉田修一の原作を映画化し、主演の妻夫木聡深津絵里はじめキャストも作品も大絶賛された「悪人」がまず思い浮かびますが、他にも「悪人」の吉田修一原作、李相日監督による「怒り」、朝井リョウ原作の群像劇「何者」、「告白」の中島哲也監督、松たか子主演による「来る」、そして昨年絶賛された「怪物」と、このカテゴリーの作品は軒並み素晴らしいものが多いです。

 

パターン5:自身が原作の映画化
 川村元気自身が原作をした作品の映画化は、「世界から猫が消えたなら」が最初です。本作と同じ佐藤健を主演に迎え、余命僅かな青年のファンタジックな物語を作り上げています。そして、同じく佐藤健主演の「億男」は、宝くじの高額当選をした男がその扱いを相談した知人にお金を持ち逃げされてしまう異色のドラマとなっています。この2作では原作のみのクレジットで、プロデュースや企画、脚本には名前の記載がありません。自身の原作の作品を映画化する際にはあえて一歩引いているのかと思いましたが、その後、自身の長編監督としてのデビュー作「百花」を発表します。これは正直期待の方が上回ってしまった作品でした。

 

とパターン別に見てみましたが、特に3、4には傑作が集中している印象です。次の新作ははたしてどのカテゴリーの作品になるのでしょうか?乞うご期待!


ワンポイント心理学 ~自伝的記憶と感情~

 過去にあった自分に関する出来事や経験に関する記憶のことを自伝的記憶と呼びます。この自伝的記憶は、エピソード記憶と言われるものの一種で、記憶できる量、保持できる時間ともに制約のない長期記憶に分類されています。言い換えれば、一度記憶していれば、一生忘れることがないという記憶になります。
 誕生日や結婚記念日など、恋愛に関わる自伝的記憶もまた一生忘れられないものになっているはずですが、よく女性が、初めてデートした日や出会って100日記念日などを記憶していて、それを男性が忘れていて怒られるといった状況を聞いたことはないでしょうか。実は自伝的記憶に関しては、他の一般的な記憶(知識や概念に関する記憶で意味記憶と呼ばれています)と比較すると、男女差があることが知られていて、女性の方が、自伝的記憶を覚える「記銘」、そして自伝的記憶を思い出す「想起」いずれにおいても男性よりも優れていると言われています。
 その理由として、自伝的記憶が定着しやすくなるのに、感情が機能するということが挙げられます。嬉しい、悲しいといった感情とその要因となったエピソードが結びついているわけですが、この感情表現を司っているのが脳内の扁桃体という部位で、この扁桃体が男性よりも女性の方が機能していると言われています。女性の方が喜怒哀楽の感情をはっきりと表出し、それを記憶とも結びつけているというわけです。ということで、女性の皆さま、パートナーの男性が記念日を忘れていたとしてもそれはあなたをないがしろにしているわけではなくて、脳機能として女性よりもこうしたエピソードの記憶が定着しにくいということでご容赦いただけたらば幸いです・・・。

 

映画「変な家」感想 ―ホラー演出の代償に失われたものたち―

 

「変な家」概要と感想

 ウェブライター、YouTuberの雨穴のYouTube動画、およびそれを元にした小説の映画化。オカルト系YouTuberがある一軒家の間取り図に違和感を抱いたことで巻き込まれる予想だにしない恐怖を描く。
監督は、「エイプリルフールズ」「ミックス。」の石川淳一。出演は、間宮祥太朗佐藤二朗川栄李奈、DJ松永、瀧本美織斉藤由貴高嶋政伸石坂浩二、他。

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

 

 自分が「変な家」を知ったのはYouTubeの動画が最初でした。その後、オモコロでWeb記事として上がっているのを見ています。小説と漫画化もされているようですが、その両者は未読です。

 映画では、オカルト系YouTuberの雨宮(間宮祥太朗)が、マネージャー(DJ松永)が購入を考えている一軒家の間取りが気になっていると相談半分、ネタ提供半分のような申し出を受けます。その間取り図をミステリー愛好家の設計士・栗原(佐藤二朗)に見せたところ、その間取り図から読み取れる様々な可能性を口にします。その時は単なる妄想ということで片付けられましたが、程なくしてこの"変な家"の近くの雑木林から死体が発見されます。栗原の解釈内容とこの死体発見のニュースを織り込んだ動画を雨宮がアップすると、それを見た宮江柚希(川栄李奈)という女性から、その家に心当たりがあると連絡があり・・・。

 オリジナルのYouTube動画、Web記事では、上記の死体発見のニュースのところまでが内容となっています。その後の展開は一応原作小説から持ってきているようですが、原作を読んだ人からはだいぶ異なっていることが指摘されているようです。自分は原作を読んでいないのでその相違の部分については分かりません。ただオリジナルのYouTube動画では、雨穴さん自身が設計士と電話でやり取りをするのとこの変な家の間取り図が映像として映るぐらいで、設計士は電話の音声のみで、しかもボイスチェンジャーで声を変えられています。こうした制限された情報下であるからこそ、想像や妄想が膨らみ、本当かどうかわからないという不確定さが恐怖感をもたらすことにつながっています。
 映画によって視覚化されることで、そうした情報が少ないことによる恐怖感の増幅はなくなってしまうのですが、より視覚的で直接的な恐怖にしようとしたのでしょうか、一定の脅かし要素はありますが、それによって本作の間取り図をモチーフとするホラー、ミステリーという部分が大いに弱まってしまった印象でした。次の章では、ネタバレ全開でそのあたりの残念な部分について書いていきたいと思います。映画の内容、結末に触れていますので、これから映画をご覧になる予定の方はご遠慮ください。

 

 

ホラー演出のために犠牲になったものたち(ネタバレ全開要注意!)

 映画では上記のあらすじに接続して、雨宮に連絡をしてきた宮江柚希が、雑木林で発見された死体・宮江恭一の妻であると主張します。恭一は人と会ってくると出かけたきり行方不明になっていたので、この家を訪ねたのではないかと。雨宮は宮江柚希と共に、この間取り図の"変な家"に乗り込むことになります。部屋は持ち主を失ってだいぶ荒れた状態になっていました。そして間取り図の通りの構造をしており、件の子供部屋は2階の中央に位置していました。2重扉を抜けて子供部屋に入ると、床中びっしりと爪で引っ掻いたような傷に覆われていました。そして部屋の隅にあった棚を動かしてみるとそこには下の階に通じる隠し通路が見つかります。その先には何が・・・と、その時!雨宮の携帯に栗原から電話が入り、衝撃の事実が!!!この衝撃はぜひ劇場で味わってもらいたいので、ここでは伏せておきます。正直、この映画中で一番怖い場面かもしれません。

 たまらず家を飛び出した雨宮は、近所の住人から、この家には片渕という夫婦と小さい子供が住んでいたこと、そして、その子供とは別の少年がいてスマホで撮影したことを告げられます。その写真をパソコンでアップにすると、別の少年は奇妙なお面をつけていることがわかります。そこに柚希がやってきて、自分は本当はこの変な家に住んでいた片渕綾乃の妹で、姉を探しているのだということを言ってきます。だったらなんで変な家で雨宮を驚かしたし?
 柚希の姉はあるとき突然家からいなくなり、母親に聞いても「家の子ではなくなった。」としか教えられませんでした。しばらくして姉と連絡が取れたときは結婚して子供もいる状態でしたが、詳細はわからないまま再び音信不通になっていたのでした。
 雨宮が動画の編集をしていると突然停電して謎の女に襲われます。胸騒ぎのした栗原がやってくると、マネージャーも部屋の前で同じ女に襲われていたことが分かります。このときのマネージャーことDJ松永のデスマスクはなかなか見応えあります。マネージャーは「マジもんじゃねえか!」と捨て台詞を吐いてこの1件から手を引きます。
 雨宮は柚希から、姉夫婦が前に住んでいた埼玉の家の間取り図を見せてもらい、そこもやはり子供部屋を隠すような構造をしていることに気がつきます。雨宮、柚希、栗原は、柚希の母親・喜江(斉藤由貴)の元を訪ねます。そこで、父親の残した意味不明の記述の並ぶノートを見せられ、父親は交通事故ではなく本家とのしがらみによって亡くなったことを告げられます。喜江の態度に違和感を感じた栗原は一人で家に戻り、押し入れから幻覚剤と怪しげなお面を発見します。雨宮とマネージャーを襲ったのは喜江であることが分かります。喜江が雨宮の家やマネージャーの存在をどのように知ったかは定かではありません。
 片渕本家にやってきた三人は、この本家でも過去に失踪事件が起こっており、東京や埼玉の変な家と同様に、子供を利用した殺人を行うための部屋ではないかと邪推をします。本家は客間が4つ繋がってますが、ところどころ引き戸が開かないような構造になっていて、これこそ殺人のための構造だと確信します。単に建付けが悪いわけではありません。その矢先、片渕本家の人間にみつかり、応接間に招待されます。片渕家の現当主・重治(石坂浩二)、妻の文乃(根岸季衣)、そして親族の清次(高嶋政伸)。それに柚希の姉・綾乃(瀧本美織)とその夫の慶太が出迎えます。姉夫婦の様子もおかしい(実は打たれています、幻覚剤)と思った矢先、雨宮たちは急激な眠気に襲われます。気がつくと片渕本家の面々の姿が消えていました。栗原は、喜江から聞いた片渕本家の呪いの話を雨宮と柚希に伝えます。

片渕本家の呪いと左手供養
 当時の片渕本家の当主が、女中の潮(うしお)という女性を妾にします。やがて当主の子供を身ごもるのですが、そのことで潮は正妻から疎まれ激しい折檻を受けます。子供は流産してしまい、座敷牢に幽閉された潮は錯乱し、自分の左手を切り落として自害します。その後、片渕家では生まれながらにして左手がない子供が生まれます。霊媒師によるとこれは潮の呪いであり、解くためには"左手供養"が必要だと言います。左手供養とは、片渕家の血を引く男児を光を当てることなく育て、10歳になったら誰かの左手を切り落とし、その左手を捧げるのを3年続けて行う供養です。

 雨宮たちは、廊下にある巨大な仏壇の裏側に空間があることに気がつきます。そこには隠し通路があり、一つは客間に繋がっていました。もう一方の通路を行くと、そこは洞窟のようになっており、潮の監禁されていた座敷牢と潮を祀る祭壇のようなものがありました。そこで雨宮たちは清次に襲われ意識を失います。気がつくと綾乃と慶太も一緒におり、2人の馴れ初めを話してくれます。高校時代いじめられっ子だった慶太は、転校生の綾乃に助けられます。綾乃なしでは生きられなくなった慶太は婿入りという形で片渕家に入ります。そこで、桃弥という少年を世話するように言われます。この桃弥こそ、片渕本家の血を次ぐもので、10歳になったら左手供養の儀式を行わなければならないのです。桃弥の親は誰かは分かりませんがとにかくそういうことです。桃弥にすっかり情が移った綾乃と慶太は、左手供養を続けるという条件で、本家の家から出て、埼玉の変な家で暮らし始めます。言い伝え通り光を当ててはいけないということで、子供部屋が外部と接さない作りだったんですね。本家からの移動の際に光は当たらんのかとか野暮なことは言ってはいけません。子供を部屋に閉じ込めながらも新婚の若い男女が2人、何も起こらないはずがなく、2人は浩人という子宝に恵まれます。それで家が手狭になったので東京の変な家へと引っ越したわけです。桃弥に左手供養をさせるのをためらった綾乃と慶太は、都合よく心臓発作か何かで死んた恭一(東京の変な家そばの雑木林で見つかった死体です、念のため)の左手を切断し、これを本家に送ります。しかし、これが桃弥によるものではないと気づかれたのか、綾乃と慶太は本家に連れ戻されます。そのときに浩人を人質にされ、今度こそ左手供養を行うことを強要されています(今ココ)。


 と一通り説明が終わったところで、雨宮は清次に体を抑えられ、そこには斧を手にした桃弥が!雨宮の左手が切り落とされると思いきや、桃弥にためらいの色が見て取れます。そりゃたかだか10歳の少年がいきなり人の左手斧で掻っ捌けと言われてもね。この隙に雨宮は潮の祭壇に体当たりして重治ともどももんどりうち、慶太も身を挺して綾乃と桃弥、柚希らを守ります。その後、文乃がチェンソーで襲ってきたり、外に出ようとしたら村人総出で襲ってきたりするので、一旦祭壇や座敷牢のある洞窟、仏壇裏、客間とつながっている隠し通路に身を潜めます。ここで東京や埼玉の変な家も実は桃弥を守るためのシェルターだった説の伏線を回収しています。ていうか村人たちは隠し通路のこと誰も知らなかったのか・・・。まあ村人は騙せたとしても片淵本家の人たちは知っているし、何なら隠し通路の奥に現在進行形でいるのでここに隠れていて安心なわけ・・・と思ったら案の定、清次が襲ってきます。清次は「左手供養なんかどうでもよいが、金もらえるから手伝ってるぜ!」と突然のカミングアウトをしたら、後ろからやってきた重治に頭を殴られた挙句、左手を切り落とされます。呆然としながらも外に駆け出した一行は、タイミング良く大型のバンでやってきた喜江に助けられます。遠くには炎上する片淵本家が映っています。
 その後、片淵本家から重治、文乃、清次、そしておそらくは過去の左手供養の犠牲になったであろう人たちの死体が見つかったことが報道されます。慶太は行方不明のままになっています。まだ洗脳が解けていないのか左手供養のことを気にする綾乃に対して喜江は言います。「次の左手供養は私に任せて。」。彼女の目線の先には炊き出しに並ぶホームレスの姿が・・・。
 一方、雨宮はこれまでの経緯を振り返ってある違和感に気がつきます。喜江はどこから自分に襲い掛かったのか、壁を叩くような音はどこから聞こえているのか、と。栗原と一緒に自宅の間取り図を確認すると、ある空間が存在することに気がつきます。その部分の壁紙をはがすとウジ虫が湧いてきて、さらには!!!で、終わりです。
 不動産ミステリーだと思ってみたらまさかの村総出系ホラーだったとは・・・。このジャンルチェンジのせいか、いろいろ整合性が取れなくなってきて結果的にクエスチョンマークがたくさん浮かぶ事態になってしまいました。次の章で残された謎、およびそれに対する私の勝手な解釈を書いていきたいと思います。


残された謎と超私的超解釈(ネタバレ全開要注意!)

謎1:柚希はなぜ雨宮たちに身分を騙ったのか?
柚希は雨宮たちと接触する際に、自分は変な家で殺されたと思われている宮江恭一の妻だと主張します。その後、それがウソで、実は変な家に住んでいた綾乃の妹であると白状しますが、このウソ必要でした?雨宮も変な家のことを知りたいのでどんなつながりでも構わなかったはずです。

私の解釈1:そうしておかないとホラー演出できないやん?

謎2:変な家はなぜ売りに出されたのか?
ことの発端は売りに出された変な家をマネージャーが買うかどうかを検討することになったということです。その段階で綾乃と慶太の家族は片淵本家に連れ戻されているので、売りに出したのは片淵本家の者か洗脳された綾乃と慶太になります。結局それがきっかけで雨宮がネット動画で取り上げてこの騒ぎなので、そもそもなんで売りに出したの?という話です。

私の解釈2:そうしておかないと物語始まらないやん?

謎3:変な家の子供部屋の床にあった無数のひっかき傷は何なのか?
雨宮たちが変な家の子供部屋に入ると、床に無数のひっかき傷があります。この部屋は外部と接しないように内側に配置されていて、二重扉、トイレは備え付けになっているのは先述した通りですが、桃弥は日の光に当ててはいけない、というだけで完全に監禁しなければならないわけではないはずです。普通におもちゃとか与えて普通に育ててよかったのでは?そもそも情が移って連れ出したのでは?

私の解釈3:その方がホラー映画っぽいやん?

謎4:そもそもこの子供部屋を作った必要性ってあるのか?
言い伝えを守るために桃弥を日の光に当てさせない、というだけのためにこの構造の家を作る必要があったんでしょうか?そもそも桃弥の存在を隣近所の人に知られることに何か問題はあるのでしょうか?桃弥を片淵本家に黙って連れ出したのであればわかりますが、桃弥がいなくなったことに気がついていないという表現はなかったので、片淵本家は把握しているはずです。そして、この変な家は子供部屋以外は必要以上に大きな窓があって光が入ってくる構造になっています。桃弥がうっかり出たら危ないと思う(夜だったけど実際に部屋から出て隣人に撮影されています)のですが、なぜこの構造になっているんでしょうか?そもそもこんな家は通常の分譲ではなく注文住宅でしかありえないですよね。綾乃と慶太が自分で建てたというよりは片淵本家の出資があると考えるのが普通なのですが、そうするとまたこの構造の謎が消えなくなってしまいます。

私の解釈4:細けえことはいいんだよ!

謎5:そもそも片淵本家はなぜ綾乃と慶太が桃弥を連れて家を出るのを許したのか?
桃弥は左手供養の行い手として片淵本家にとって非常に重要な存在です。それを直接血も繋がっていない綾乃と慶太に連れて行かせるでしょうか?当然外に出るのでそのときにうっかり日の光に当たってしまうかもしれないし、その後も日の光に当たるリスクは大きくなります。素直に洞窟の座敷牢に閉じ込めておけば良かったと思うのは私だけでしょうか。

私の解釈5:子孫繁栄のためにはやむなし!

謎6:喜江と夫(綾乃、柚希の両親)はなぜ片淵本家を離れて生活していたのか?
そもそも喜江とその夫もどうやって片淵本家を離れられたのかという話です。原作の設定では夫の方が片淵本家の直系らしく、そうなると10歳のときに左手供養をしているはずです。そうすると10歳まで戸籍もなかったのではないかと思われるのですが、その後普通に結婚して家庭を作れるものなのでしょうか?

私の解釈6:子孫繁栄のためにはやむなし!

 他にもいろいろあるのですが、ここまで整合性が取れなくなった要因として、原作のとある設定がごっそりなくなっていることが考えられます。その設定とは、この左手供養は片淵本家と分家との争いがきっかけとなっているという部分です。映画ではこの分家の存在そのものを完全になくしてしまっているため、この一族が黙々と左手供養を続ける形になってしまっています。
 オリジナルのYouTube動画やネット記事では、変な家とそれにまつわる栗原さんの解釈があり、それが真実なのか妄想なのかわからない、どう判断するかを見ている側にゆだねるというのが良かったのですが、これが原作小説の段階で変な家の住人にスポットを当て、それが村社会の因縁から来ているという点でやや蛇足な印象があるのですが、映画ではさらに独自の解釈と編集を加えてしまったところで、よくわからないものになってしまっています。細かい部分を煙に巻いてホラー演出でごまかすといった感じなので、不動産ミステリーを楽しみにしていた人は面食らうかもしれません。それでもそこそこヒットをしているし、雨穴さんの原作にも続編があるとのことで、おそらく映画も続編が作られるのではないかと思われます。続編の方が間取り図も多く出てくるとのことで、不動産ミステリーに回帰してもらえればうれしい限りです。

 ややネタ的になりましたが、一応自分なりの考察でした。真面目な考察系記事をお好みの方は、「落下の解剖学」の方の記事を御覧ください。

sputnik0107.hatenablog.jp

 

大胆なフォーマットチェンジの映画

 上記のように、元がYouTube動画やWeb記事といったものから派生して作られた映画ということで、どうしても無理があったように思います。ここでは、別フォーマット、別メディアで話題となったものの映画化をまとめてみます。

 

スキージャンプ・ペア ~Road to TORINO 2006~」

 真島理一郎のオリジナルCG動画を元に映画化。谷原章介がナビゲーターを務めてドキュメンタリー形式でスキージャンプ・ペアの競技誕生秘話からオリンピック競技として執り行われるまでを描いた異色作です。出演者に船木和喜荻原次晴などの実際のオリンピアンから、アントニオ猪木ガッツ石松まで出演していてなかなか豪華ではありますが、元々がペアでスキージャンプをするシュールなCG動画から派生させただけにやはりいろいろ無理があった感じ。次の記事で「四月になれば彼女は」を書こうと思って川村元気について調べていたら、この作品のことを思い出したので追記でした。

 

 

 

「マダム・マーマレードの異常な謎」
 脱出ゲームを基にした映画。出題編と解答編に分かれていて、出題編の本編終了後に映画館の場内の明かりがつき、そこで映画を観た人が謎解きに答えて、回答を出口のBOXに投函するという形を取っていました。脱出ゲームはTVドラマをはじめマルチフォーマットで展開していた強みもありますが、本作は川口春奈がメインキャストで他にも劇中の短編に杉咲花山本舞香などなかなか豪華キャストで映画としても十分に楽しめる作品になっていました。ちなみに自分は謎は解けませんでした・・・。

 

「劇場版 マーダー★ミステリー 探偵・斑目瑞男の事件簿 鬼灯村伝説 呪いの血
 マーダーミステリーをベースとした映画。元々はTVドラマシリーズとして作られた作品の映画版。
 出演は、劇団ひとり剛力彩芽高橋克典八嶋智人、他。キャストにはキャラクター設定と行動指示のみが与えられてアドリブの芝居で進行していくという形になっていますが、マーダーミステリーというよりは即興劇という印象でした。

 

「ダウト~嘘つきオトコは誰?~」
 同名アプリを原作にした映画。婚活パーティーで知り合った男性10人のうち9人はウソをついており、残る1人が運命の相手であると占い師に言われた主人公が、男たちのウソを見抜こうと奮闘する。文字通りアプリをそのまま映画化したかのような作品で、劇場で「なぜ自分はこの映画を観に来たのか・・・」と自問自答するぐらいの作品でした。永江二朗監督はこの後、「きさらぎ駅」「リゾートバイト」と快作を連発するので、その布石だったと思えば当時の自分を少しは許せそうです。

 

モンスターハンター
 同名ゲームの実写映画化。突如としてモンスターたちのひしめく世界に飛ばされた主人公たちが決死のサバイバルを試みる。ゲーム性もゲームの世界観も何一つ置き去りにした異世界モノになっています。監督はポール・W・S・アンダーソンで、「バイオハザード」シリーズの映画版の監督として有名ですが、「モータル・コンバット」や「デッド・オア・アライブ」の監督も務めており、ゲーム原作の映画化のトップランナーとも言えます。なお作品の出来は・・・。

 

逆転裁判
 同名ゲームの実写映画化。近未来の法廷を舞台に、新米弁護士が難事件の裁判に挑む様を描いています。成宮寛貴斎藤工桐谷美玲など豪華キャストだが、圧倒的コスプレ感が拭えませんでした。近未来設定にすることでゲームのシステムを映画に持ってきてもごまかせると思ったのかもしれませんが、プレイヤーが相手の証言に対して意義を唱えたり証拠品を提示したりを選択していくシステムこそが面白いゲームなので、映画になってしまうとその部分の魅力がなくなってしまう。三池崇史監督は「龍が如く」の実写版の監督もしており、ゲーム原作の映画化のトップランナーとも言えます。なお作品の出来は・・・。

 

 

とまあ、元が人気になると映画化の話はどこからか湧いて出てくるのでしょうね。残念ながら大成功という作品はめったにない印象があります。やはり元々のフォーマットがあってこその作品なのかもしれません。

 

ワンポイント心理学 ~迷信を信じてしまう訳~

 今回は迷信についての心理学です。本作では左手供養の迷信が出てきましたが、そこまで極端なものではないとしても私たちの身の回りには多くの迷信が存在しています。例えば、「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」というものがあります。これは本来は夜爪が世詰めという言葉と同じ語呂で、これが短命を意味することから縁起の良くないこととされて、いつしか上記のような迷信となったと言われています。根拠をたどっていくと、昔はそれなりに理屈があったものがいつしか風化していて、内容だけが言わば都市伝説のように残っている場合などもありますが、私たちが日常的にこうした迷信を信じてしまうのは、原因の帰属が得意ではないということが挙げられます。
 例えば、「チョコレートを食べすぎると鼻血が出る」という迷信について考えてみます。チョコレートを大量に食べると血行が良くなる、カフェインやポリフェノールによって血流が良くなるなどという可能性はありますが、医学的に明確な根拠は示されておりません。ですが、ある時チョコレートを食べたときに鼻血が出るという経験をしたら、チョコレートが原因で鼻血が出たと捉えがちです。それに対して、チョコレートを食べたけど鼻血が出なかったという経験をしたとします。このときは当然チョコレートと鼻血の因果関係は示されませんが、それが当たり前過ぎると、私たちはこの出来事自体が記憶からなくなってしまうのです。そうすると記憶に残っている出来事は、「チョコレートをたくさん食べたら鼻血が出た」というもののみになります。こうして経験則として蓄積されていった情報が迷信となって残っていくのです。それがいわくありげなものだったり、もっともらしかったりするとその影響力はなおさら大きくなるので、村の古くからの習慣などはまさに根強い迷信となっていくわけです。

 

映画「マダム・ウェブ」感想 ―イマイチ話題にならなかった要因と予知能力のウソ・ホント―

 

「マダム・ウェブ」概要と感想

 マーベル・コミックのヒーロー、"マダム・ウェブ"の誕生秘話を映画化。予知能力に目覚めたヒロインが謎の男に命を狙われる3人の少女を救ったことで巻き込まれていく運命を描く。
 監督は、本作が長編映画デビューとなるS・J・クラークソン。「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」のダコタ・ジョンソンが主演を務める。他の出演はシドニー・スウィーニー、イザベラ・メルセド、セレスト・オコナー、タハール・ラヒム、ら。

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

 

 マーベル・コミックの最新作ながら、アメリカの大手批評サイトRotten Tomatoes(ロッテン・トマト)における批評家の評価を集計したトマトメーターでは12%、一般の観客評価のオーディエンススコアでも57%と、批評家、一般客のどちらも芳しい評価とは言えず、興行成績もアメリカで4000万ドル、全世界合わせても8000万ドル程度にとどまっています。いわゆるアメコミ映画が興行成績的に厳しいと言われる日本ではどうか、というところだったのですが、かなり厳しい成績だったようですね。公開館数もすぐに激減して、あっという間に1日1回のみの上映となってしまったので、自分も日程を合わせて見に行くのが大変でした。

 冒頭は1973年、南米ペルーで蜘蛛の調査をしているコンスタンス(エマ・ロバーツ)の姿が捉えられます。この女性は妊娠中で体調も良くない中、研究に従事しているのですが、その苦心の甲斐あって、幻の蜘蛛を発見します。しかし、調査に同行していた男エゼキエル(タハール・ラヒム)に銃で打たれ重傷を負い、蜘蛛もエゼキエルに奪われてしまいます。瀕死のコンスタンスを発見したアラニャス族は、彼女を秘密の洞窟に連れていきます。

 舞台は変わって2003年のニューヨーク。救急救命士のキャシー(ダコタ・ジョンソン)は、ベンとタッグで救命活動を行っていました。キャシーは救命活動の際に川に転落してしまいますが、ベンに助けられます。そのとき、キャシーは不思議なビジョンを目撃します。自分のバイタルを確認するベンの姿を、まるでビデオを巻き戻したかのように繰り返し見たのです。

 一方、エゼキエルは自分が3人の若い女性に殺される夢を毎晩のように見ています。彼は予知能力を持っているようで、そう遠くない未来に自分が殺されると考えた彼は、この3人の女性について調べます。NSAの捜査官を騙して監視システムが使えるようになったエゼキエルは、ついにこの3人を発見します。

 3人の少女は偶然同じ電車に乗るところでした。そこにはキャシーの姿もあります。ここでキャシーの予知能力が発動し、この3人の少女が謎の男に殺されてしまうビジョンが見えます。すんでのところで少女たちを助けることに成功しますが、少女たちを狙ったエゼキエルの姿は誰にも見えておらず、キャシーは誘拐の容疑をかけられてしまいます・・・。

 というのが前半部分の流れで、テンポもよく後半も期待させる作りだったと思います。そうだったのですが、思いの外盛り上がらずに終わってしまうというのが正直な感想です。
 その要因として、1点目は、アクションシーンが少ないことです。これは事前にわかっていた部分でもあるのですが、キャシーはまだ完全に能力に目覚めているわけではないため、エゼキエルとのガチンコバトルということはできなかったのでしょう。その割には五分の戦いを展開はするんですけどね・・・。日本では苦肉の策なのか、マーベル史上初のミステリーというコピーで売り出しましたが、正直ミステリーという印象は全く無いので、そちらの方面で期待した人たちも裏切る結果となってしまっています。
 2点目は、他作品とのリンクを感じにくいことです。本作は当然「スパイダーマン」に絡んでいくはずで、それを意識した作りにはなっているのですが、マーベルの、とりわけスパイダーマンの世界ではマルチバースが当たり前になってしまっているため、この「マダム・ウェブ」の世界がリンクしていくスパイダーマンも、どこかの並行世界のスパイダーマンであって、トビー・マグワイアでもアンドリュー・ガーフィールドでもトム・ホランドでもない人物になっている可能性があるわけです。そうなると感情移入やエモさを感じることは難しくなってしまいます。
 そして3点目、ヴィランであるエゼキエルの能力が不可解なことです。この点については次の章で書いていきたいと思います。

 


ヴィランのキャラクター・設定のブレ。エゼキエルとは何なのか?(ネタバレあり)

 冒頭のペルーのシーンで、エゼキエルはコンスタンスの発見した奇跡の蜘蛛を奪い去ります。そのときに「自分は昔から貧乏で見下されてきた」というような捨てゼリフを吐いています。このセリフから察するに、この貴重な蜘蛛を売り飛ばすことでお金にしようとしているのではないか、と思ったのですが、2003年のニューヨークのシーンでも大切に保管していることが分かります。それでも豪華なマンションに住んでいるのでお金持ちにはなったようですが、一体どうやって???
 その後、エゼキエルは毎晩夢に見る自分が殺されるヴィジョンに怯えています。3人の少女(スパイダーウーマン)が自分のマンションに来て、自分を殺すと。それを回避するためにNSAの職員を騙して監視システムを手に入れます。そして一人女性を雇ってこの監視システムで3人の少女を探させます。以降、この女性の情報を得てはエゼキエルが自ら少女たちを始末しようと襲ってくるのですが、マンパワーなさすぎでは?お金持ってそうなのにこの女性以外雇えなかったのか謎な部分になっています。

 そもそもエゼキエルの能力がよく分かりません。分かっている部分としては、毒で人を殺すことができる(NSAの職員を毒殺しているシーンがあります)、屋根や壁などを伝って移動することができる、部分的なステルス能力がある、部分的な予知能力があるといったところでしょうか。特に後者2つについてはいろいろ疑問が残ります。
 ステルス能力に関して、一般人には見えていませんが、スパイダー能力を持っている人には見えているということなのか、キャシーには見えています。ただこの時点で3人の少女にも見えているのはどういうことなのかが分かりません。彼女たちが能力に目覚めるのはもっと後のはずなので。そしてなぜかキャシーの同僚のベンにも見えているようです。
 そして後者の予知能力についてもエゼキエルが明確な予知能力を発揮しているのは上記の自分が殺される予知夢のみです。キャシーは序盤はせいぜい数分後の未来しか予知できず、それも目に強い光を当てられたとき、風船の破裂音などの大きな音がしたときなど、視覚、聴覚に刺激を受けた際のみに発動していたのですが、エゼキエルの方はよく分かりません。予知できる日数が離れていても大丈夫ということなのかもしれませんが、終盤のバトルでもキャシーの仕掛けにことごとくひっかかっている印象で、予知能力を発揮している印象がありませんでした。
 そもそも2人の能力者がどちらも予知能力を持っていることで無理が生じている印象です。キャシーの方はある程度わかりやすく、窓にぶつかってしまうハトを予知能力で救うことができています。数分先の未来のビジョンなので、予知したタイミングの時間軸に戻っていれば、対応が可能なのです。エゼキエルの方は、自分のマンションでスパイダーウーマンたちに突き落とされて死亡するというビジョンだったのですが、本作の最後まで少女たちは能力に目覚めていないので、もし仮に何もしなかったとしても殺されるのはだいぶ先だったはずです。また自分の行動でビジョンが変わっていっているはずなのにそれを見なかったということなのでしょうか。結局予知能力者が複数いることで少なくともどちらか一方がおかしなことになってしまうのが避けられなかったという印象です。このあたり設定が肝となりそうな作品では痛かった部分ですね。


予知能力が関連している映画

「デッド・ゾーン」

 スティーブン・キング原作のSFサスペンス。交通事故によって相手に触れるとその人物の関わる未来が見えるようになった主人公が、ある政治家が世界を破滅に導く未来を予知してしまい・・・。現在公開中の「DUNE 砂の惑星 PART2」にも出演しているクリストファー・ウォーケンが主演で、なまじ能力を持ってしまった男の苦悩を体現しています。これ監督デビッド・クローネンバーグだったんですね・・・。

デッドゾーン

デッドゾーン

  • Christopher Walken
Amazon

 

ファイナル・デスティネーション

 ジェームズ・ウォン監督によるパニック・スリラー。修学旅行で乗るはずの飛行機が爆発してしまう夢を見た主人公はパニックになり、それを聞きつけた友人たちとともに飛行機に搭乗できなくなってしまう。その飛行機は離陸直後、夢で見た通りに爆発してしまう。一命をとりとめたかにみえた主人公たちだったが、次々と不可解な死を遂げる・・・。死の運命の連鎖、法則性などが話題となった作品でシリーズ化もされています。

 

「ギフト」

 サム・ライミ監督によるサスペンス・スリラー。人の運命を見抜く超感覚を持った女性が町で起きた失踪事件の真相を探る。ケイト・ブランシェット主演で、キアヌ・リーブスケイティ・ホームズ、ジョバンニ・リビシ、グレッグ・キニアヒラリー・スワンクととにかく出演陣が豪華。

 

マイノリティ・リポート

 スティーブン・スピルバーグ監督、トム・クルーズ主演のSFアクション。原作は「ブレードランナー」で知られるフィリップ・K・ディックの短編小説。未来に起こる犯罪を事前に予知し、犯人を先んじて逮捕する方策がとられている近未来を舞台に、自分が未来の犯罪者と指定されてしまった捜査官が自分の無実を証明するべく動き出す。展開は読めてしまうがアクションとしては楽しめる。独特な衝撃波の撃てる銃の造形が素晴らしい。

 

「NEXT -ネクスト-」

 フィリップ・K・ディックの短編「ゴールデン・マン」を、ニコラス・ケイジ主演で映画化したアクション。2分先の未来を予知できる能力を持っていた主人公が、FBIに要請され核爆弾テロの阻止に挑む。主人公の身体能力の高さの方が気になるし、2分後の予知能力という設定もだいぶガバガバになっていくけれど、いろいろ突っ込みつつ楽しめる。ちなみに監督のリー・タマホリはこの映画の撮影前に売春容疑で逮捕されていることは映画ファン界隈ではあまりにも有名。

 

ワンポイント心理学 ~予知能力と心理学~

 予知能力のような超能力は心理学とは関係がないでしょう・・・と思われるかもしれませんが、予知能力についての研究が心理学界で話題になったことがあります。コーネル大学のBem教授は、単語の記憶課題において、記憶テストの後にランダムに呈示される単語(未来に呈示される単語)の記憶成績がそれ以外のものよりも良くなっているということを示しました。これは大いに物議を醸し、その後同様の研究を行った人が同じ結果にならなかったということで、再現性の低さでも話題となりました。こうした内容のものは疑似科学などと言われることもあり批判も多いのですが、他の分野の心理学における実験や研究でも再現性があまり高くないことも示されており、結果の再現性の議論にも一役買ったことになります。
 それでも超心理学と呼ばれる分野で今も真剣に研究している方もいるのです。ロマンなのでしょうか、それとも現実なのでしょうか。

映画「落下の解剖学」感想 ―延々と語り合いたい考察系映画のススメ―

「落下の解剖学」概要と感想

カンヌ国際映画祭パルム・ドールに輝き、アカデミー賞にもノミネートされたフランス映画。
人里離れた山荘で転落死をした夫の殺人容疑をかけられた妻の裁判で次々と知られざる秘密が明らかになっていき・・・。
監督はジュスティーヌ・トリエ、出演は、ザンドラ・ヒュラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネール、他。

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

 

 冒頭、フランス、グルノーブルの人里離れた場所にある山荘。ある女性の作家サンドラ(ザンドラ・ヒュラー)が女子大学生からインタビューを受けています。作家はリラックスした雰囲気で終始和やかな雰囲気でインタビューが続いていきます。後ろに大音量の音楽が流れていることを除けば。このときに流れているのが50centの「p.i.m.p.」というのもいかにも象徴的。インタビューがままならなので次の機会に改めてということで女子大学生は帰っていきます。それからほどなくして、息子のダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)が飼い犬のスヌープの散歩に行きます。ここでダニエルが視覚に障害があること、スヌープが盲導犬でもあることが分かります。家に戻ってくるとスヌープが異変を察知します。一面の雪の上であまりにも目立つ赤。倒れている男性が父親サミュエルであると分かったダニエルは叫び声をあげます。

 以上が冒頭のシーンなのですが、観ている側を物語に引き込んでいく巧みな構成だと思います。一見して日常のありふれた風景のように見えるのですが、そこに垣間見える非日常性が印象的です。例えばインタビュー中なのにあたかもそれを邪魔するかのような大音量の音楽、インタビューされている当の本人も騒音について注意もしにいかないというのが違和感を感じさせます。また、ダニエルが視覚に障害があるため、地面に人が倒れていること、それが父親であることに気がつくまでだいぶ時間があります。観ている側はすでに画面に映っているので分かるのですが、この絵もまた日常に飛び込んできた非日常となっています。

 夫はそのまま息を引き取ってしまいますが、その死には不可解な点が存在します。落下したであろう山荘の3階の部分から倒れていた場所が離れていること、血痕が付着している場所が点々としていること、傷跡が落下のタイミングでできたものではない可能性があること、などがあり、警察も事件性を考慮して捜査を開始します。結果として、殺人の容疑で妻が逮捕され、裁判にかけられることになります。夫の死は、事故なのか、自殺なのか、それとも妻による殺人なのか、裁判によって真実が明らかにされるのか・・・という話ではありません。本作はそもそも真相の究明に全くベクトルが向いていません。妻の弁護士として古い知り合いのヴァンサンという男が担当することになりますが、妻が「自分は殺していない」とヴァンサンに伝えたのに対し、ヴァンサンは「それは重要ではない」と言い放ちます。フランスでは陪審員制の裁判が行われているようで、陪審員の心証が裁判を決定づけるということもあるのでしょう。
 さらに、この件を殺人と断定するには決定的に不足しているものがあります。それは凶器です。夫が転落前に鈍器のようなもので殴られているとした場合、その凶器があるはずですが、事件後の捜査では見つかりません。つまりは決定的な証拠は存在しないということになります。殺人だとした場合の実行可能性で言えば、犯行時間はダニエルがスヌープを散歩している間になり、このとき家にいたのは殺された夫と妻しかいないのですから、妻のみとなります。本人は部屋で寝ていたと言っていますがそれを証明することはできません。状況証拠しかない状態で裁判が始まります。観ている側も傍聴席で一緒に裁判の成り行きを見守る形で映画を観ることになります。
 証拠が不十分な状況で、重要視されてくるのが息子の証言になってくるのですが、先述したように息子のダニエルは視覚に障害があるため現場を"目撃"することはできません。両親が激しい口論をしていたかもしれないという件を検証しますが、大音量の音楽でははっきり聞き取ることができない、いや家の中なら可能ではないか、など現場検証も行っていきますが、ダニエルも決定的な証言をすることができません。ちなみに第一発見者であり唯一の目撃者はスヌープになりますが、動物目線でしか真相がわからないというのは、まさに原題がその通りの「悪なき殺人」(原題は、「Only the animals」:動物だけが知っている)なんかもそうでしたが、こちらは観ている側も真相が分かるのに対し、本作では本当にスヌープしかわからないとも言えます(スヌープも決定的な現場を見たわけではありませんが)。このスヌープを演じたのはメッシという犬なのですが、この演技でカンヌ映画祭で犬に与えられる賞、その名もパルム・ドックを受賞しています。本作を観るとそれは大いに頷けます。

 かくして裁判では、この夫婦関係にスポットが当てられていくことで、一見仲睦まじい家族に見えたのが、そのメッキが剥がされていくという展開になっていきます。このプロセスをタイトルにもある解剖学という言葉でなぞらえているのでしょうが、往年の映画ファンには有名な「或る殺人」という1959年の作品の原題が「Anatomy of a murder」で、ある殺人事件の裁判を通じて容疑者とその妻の関係が明らかになっていくという構図も一致しています。本作も「或る殺人」もそうですが、映画の大半が法廷劇、法廷でのやり取りや会話が中心となっていて、絵的にはかなり地味です。そうした部分でアカデミー賞の作品賞受賞にまでは届かなかったのかもしれません。また先述したように本作は真実を明らかにしようという方向に誰も動いていないため、最後まで観ても何が真実かは断言できません。自分なりの解釈や人それぞれの考察を楽しめる人には向きますが、観終わって釈然としない印象が残る人もいるかと思います。なので観る人を選ぶタイプの作品であると言えますね。


夫婦の関係性とパワーバランス

 本作のもう一つの特徴として、この夫婦の関係性があげられます。妻のサンドラはドイツ人で、夫のサミュエルはフランス人です。2人はロンドンで結婚して生まれたダニエルと共にそこで暮らしていましたが、ダニエルが事故で視覚に障害を持ってしまい、その治療費がかさむということで夫の出身地であるフランスに居を構えるようになっています。家族は基本英語で話をしますが母国語が異なっているというのも、夫婦間の微妙なディスコミュニケーションを示しているようです。さらに、裁判はフランスで行われており、サンドラが供述の際にフランス語がうまく出てこずに「英語で良いかしら?」と確認するシーンがあります。このあたりも裁判におけるサンドラの孤立感を示している印象がああります。
 それからサンドラはベストセラー作家で、サミュエルは学校の教員をしながら小説の執筆活動もしているということでしたが、少なくともフランスに移住してからはあまり働いているような描写が感じられなかったので、さしづめ専業主夫といった状況になっています。ダニエルが目が見えなくなってしまったきっかけの事故も、サミュエルが迎えに行けなかったことが原因とされているようで、サミュエルはサンドラに引け目を感じているとも言えます。
 フランスにおける夫婦関係は分かりませんが、一般的な家庭とはパワーバランスが逆転しているといって良いでしょう。それもまたこの事件の真相を見えづらくしている要因でもあり、同時にこの事件の引き金ともなっているのです。
 息子のダニエルの目にはどのように映っていたのでしょうか。ダニエルは裁判が続いている終盤で自分が2度目の証言をする機会を得ますが、その裁判の日まで母親と一緒に過ごしたくないということを吐露します。これは裁判の過程で母親の真の姿が明らかになってきたこともあるかもしれませんし、もちろん父親を殺したかもしれない人と一緒にいたくないという感情もあったのでしょう。一方、父親に対してはどのような感情を抱いていたのでしょうか。ダニエルと父親のシーンも終盤にダニエルの回想という形で出てきます。車の中で飼い犬のスヌープの具合が悪いという話で、父親はスヌープが自分たちよりは先に死んでしまうことを告げ、命の儚さ、尊さを伝えるという、親としての厳しさと優しさを体現しているかのようなやり取りになっています。ただこのシーンもまた・・・。
 子どもはやはり養育者として自分の世話に大きく関わる方に愛着を抱きやすいものです。それが一般的には母親であることが多いので、両親が離婚するとなった場合に母親のほうが親権が認められやすいということにもつながったりするのですが、この実の親と養育者の関係性を描いた作品として、「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」を挙げたいと思います。1960年代のアメリカ南部が舞台で、黒人メイドの視点で差別の問題が描かれているのですが、この作品で興味深い点は、白人の上流階級の女性は自分磨きにばかり意識が向いていて子どもの世話を黒人のメイドに任せきりなので、子どもたちは黒人のメイドに懐いています。養育者の存在の重要性が雄弁に語られている作品です。

 

観た人と延々と語りたい!考察系映画

 先にも書いたように、本作は観る人によって評価も分かれそうですが、それは言うなれば観る側に解釈の幅がある、どのように理解するかは観る側に委ねられるとも言えます。こうした"考察系映画"をいくつか紹介したいと思います。

羅生門
黒澤明監督が、芥川龍之介の「藪の中」を元にした作品。ある武士の殺害事件についてそれぞれの立場の食い違う証言が出てくるという時代モノサスペンスです。真相は藪の中という言葉が日常的に使われるようになったのも本作(とおよびその原作)の影響と言えるぐらいの不朽の名作です。

 

 

インセプション
クリストファー・ノーラン監督のSFサスペンス。人の潜在意識にアクセスして情報をコントロールできる近未来を舞台に、危険なミッションに挑む主人公たちの姿を描く。「ダークナイト」の大ヒットを受けて自身のオリジナル脚本で打って出たクリストファー・ノーラン監督の渾身の作品ですが、人の潜在意識の階層性があり、そこが現実なのか、潜在意識なのかの区別がわかりにくいのがポイントです。ノーラン監督作品は難解なものが多いので、「インターステラー」や「TENET テネット」もその類と言えるでしょう。

 

哭声/コクソン
ナ・ホンジン監督・脚本による韓国製のサスペンス・スリラー。田舎の村で村人が自分の家族を惨殺する事件が連続して発生する。犯人はいずれも正気を失った状態で、体に謎の湿疹が現れていた。警察は事件の発生時期と同じくしてこの村に住み着いた謎の日本人に疑いの目を向ける。キリスト教をベースにした異色のサスペンス・スリラーとなっていて、これも解釈が幾通りも可能な作品となっています(今は監督のコメンタリーや本編からカットした映像もあるので結論は定まっているのかもしれません)。

哭声/コクソン(字幕版)

 

「怪物」
是枝裕和監督、坂元裕二脚本によるサスペンス・ドラマ。シングルマザーの早織は、息子の不可解な行動が担任の教師・保利の発言にあると思い、学校に問いただすも学校側はおざなりな対応に終始して・・・。
早織の目線、保利の目線、そして子どもたちの目線とそれぞれの目線で実際に映像化されているため、観ている側は困惑しやすい表現になっています。「羅生門」(「藪の中」)のような構成を彷彿とさせる作品です。是枝裕和監督は「三度目の殺人」も同様に考察系映画になりますね。

 

これらの作品は観た人と延々と語りたくなること請け合いです。「哭声/コクソン」を観たときは語り合いたいのに周りに観た人がいなくて大変だったのは、今にしてみれば良い思い出です。

ワンポイント心理学 ~感情バイアス~

 感情バイアスとは、感情に左右されることで、間違った意思決定や判断をしてしまうことを意味しています。自分の好き嫌い、過去の経験や記憶などにより良い印象を抱いているものを過大評価し、悪い印象を抱いているものを過小評価する傾向があります。自分の好きなタレントが出ているCMの商品がすごくよく見えたり、逆に一度接客態度が悪かったお店には二度と行きたくなくなったりするというのもその一例です。とりわけ、悲しみ、嫌悪、罪悪感、怒りなどを感じていると、意思決定や判断が歪みやすいということが知られています。
 本作では、裁判において特に検察側が容疑者の人間性の部分で望ましくない情報を並べることで、陪審員に悪い印象をもたせるように働きかけていることが分かります。陪審員も人なので、当然感情に左右されることが大いに考えられます。
 感情にとらわれずに意思決定をするためには、前回の記事で書いたクリティカル・シンキングは一つ有効な手段となります。第三者的な視点で物事を捉えることができれば、自分の感情や立場にとらわれずに意思決定や判断を行うことができます。

前回記事はこちら。

sputnik0107.hatenablog.jp


 ただし、意思決定において感情が必ずしも邪魔者というわけではありません。我々の過去の経験や記憶が新たな意思決定においてうまく活用されることもあり、その際に、感情は記憶のトリガーとなりやすいのです。場面に応じてうまくコントロールすることが重要なのですね。

映画「マッチング」感想 ―あえてそれを死卍と呼ぼう―

これまで当ブログでは比較的真面目に映画の感想を書いてきたつもりです。
とりわけ考察のしがいのある作品をピックアップして記事にしているのですが、観る側の姿勢としては基本的には食わず嫌いを避けておりまして、要するにタイミングさえ合えばなんでも観るというスタンスです。
そんなわけで選り好みをせずに映画を見ていると、当然ですが中には面白くない作品や意味がわからない作品、もったいない作品などにもたくさん出くわします。
ただそうした映画でも視点を変えればいろいろと楽しむことができると思っていて、今回の記事はそんな作品「マッチング」です。

 

「マッチング」概要と感想

 「ミッドナイトスワン」「異動辞令は音楽隊!」の内田英治監督が、自身で原作・脚本も手掛けたサスペンス・スリラー。マッチングアプリを始めたヒロインがアプリで知り合った男性によって巻き込まれる恐怖を描く。出演は土屋太鳳、佐久間大介金子ノブアキ杉本哲太斉藤由貴、他。
ウェディング・プランナーの輪花(土屋太鳳)は、仕事とは裏腹に自分の恋愛には奥手になっていた。同僚に勧められたマッチングアプリで吐夢(佐久間大介)とデートをするも、粘着されてしまい恐怖を感じる。そこでマッチングアプリの運営スタッフの影山(金子ノブアキ)に助けを求めるが・・・。

 

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

 ミステリーやサスペンス系の作品で、人を惹きつけるためのキャッチコピーとして「どんでん返し」を謳うものも少なくありませんが、本作もその1本です。ただし、こういう売り方をされようとされまいと、我々の目が肥えてきたというか見慣れてきたというか、構えのようなものができてしまって、斜に構えて素直な気持ちで観られなくなってしまっている気がします。ミステリーやサスペンスが一ジャンルとして確立されて以降多くの作品が世の中に出てきたことで、完全に観ている側を騙す、ということが非常に困難になってきています。

 このあたりは過去の記事、「映画「ある閉ざされた雪の山荘で」感想」にも書いています。該当記事はこちら。

sputnik0107.hatenablog.jp


 その構えによる見方の最たるものが、「いかにも怪しいやつは犯人ではない」ということです。確かに最初から犯人らしい人物がそのまま犯人だったらなんのひねりもなくなってしまうのですが、逆に言えばそれで容疑者があっさり除外されてしまうというのも皮肉なものです。
 本作はそれで終わらせないために一ひねり、二ひねりと仕掛けを用意しているのですが、そこにがんじがらめになりすぎてしまったという印象は否めませんでした。なんらかの事件が起こったときにはやはり動機やアリバイという要素は重要だと自分は思っていて、本作ではそこをないがしろにしてしまっているがために、どんでん返しと言われても・・・という気がしてしまいました。
 新婚のカップルが同じ形で惨殺される事件が連続して起こっている、その流れで輪花がマッチングアプリで出会った不審な男が出てくる、さらに輪花の父親も何か隠し事があって・・・ととっかかりは色々あるのですが結びついていきそうで結びついていかないので、設定としては不十分だったように思います。

 内田英治監督作品と言えば、やはり「ミッドナイトスワン」でしょう。草なぎ剛トランスジェンダー役を演じたことでも話題になった同作は評価、興行成績のどちらも良かったと思いますが、物語や展開という部分では疑問なところも多かった印象です。それでも草なぎ剛はじめキャストの演技、キャラクター、そしてバレエのシーンをはじめ映像的には目を見張るところが数多くありました。
 そして今年「マッチング」に先駆けて公開された「サイレントラブ」では、言葉を発することができない男性と目の見えない女性の儚い恋を描いています。こちらもやはり設定や展開には不可解な部分が散見しますが、やはり主演の二人、山田涼介と浜辺美波が演技も良く絵的にも映えるのと、特に前半のビジュアルの良さは印象的でした。
 本作も含めて、展開や設定には粗がある、だけどキャストの演技と映像や美術に助けられているというのが目下のところ内田英治監督作品の共通点という印象がありますが、確かに映画なので絵的な良さがあれば十分なのかもしれませんが、それならばもう少し物語にも説得力を持たせてくれれば良いのにという気がしてしまいますね。ということで、本作を真面目に観た場合はあまりオススメできる作品とは言えません。

 


粗があるなら突っ込めばいいさ!B級映画の楽しみ方(ネタバレ全開要注意!)

 先にも書きましたが、自分はとにかく食わず嫌いで映画を観まくっているため、世間一般の方と比べて地雷を踏む確率も高くなっているので、そうしたB級、C級、Z級映画の耐性もかなりついていると思います。いやもはや地雷だと分かってても踏みに行くぐらいの勢いもあります。観た映画が期待外れだった場合、ただつまらなかったと吐き捨てるのではなく、どのように観れば面白くなるのかを模索すれば良いのです。設定や展開に粗があるのならば、突っ込めば良いのです。自分がこのような考えに至るきっかけになったのが、映画解説者としてよく知られていた故水野晴郎が初監督だけでなく製作、原作、脚本、主演、主題歌の作詞を務めた作品「シベリア超特急」です。この映画はもう・・・いやこれ長くなるからやめましょう。そういえばシベ超もどんでん返しを謳った(というか映画の冒頭に「どんでん返しありまぁす!と宣言してる」)作品でしたね・・・。

 

 ということで、本作もだいぶ公開から時間も経っていることですし、ネタバレ全開でお送りしたいと思います。未見の方、これから映画を真面目に観ようと考えている方はこの章はスルーをお願いします。

 

 ウェディング・プランナーとして働く輪花(土屋太鳳)は、恩師(大学時代だったか高校時代だったかは失念)の結婚式を手掛けていました。輪花は実はこの恩師に片思いをしていたためどこか心ここにあらずの状態でした。それを見かねてか同僚の尚美(片山萌美)に半ば強引にマッチングアプリ「ウィルウィル」を勧められ、始めて見ることに。しかしそのアプリで尚美に勝手に"マッチング"された相手、吐夢(佐久間大介)は初デートのときに「自分は生まれてすぐにコインロッカーに捨てられた」と暗い生い立ちを話し出してきたので輪花は適当にあしらって立ち去ろうとしますが、さらに「僕とあなたは運命でつながっています」と言われてドン引きします。

 一方その頃、アプリで知り合って結婚したいわゆるアプリ婚カップルを狙った猟奇殺人事件が続発していました。殺された夫婦は手を組んでそこを鎖でがんじがらめにした状態で顔にバツ印をつけられているというのが共通点で、ここは本作の美術、特殊造形の見どころの一つとなっています。このアプリ婚殺人事件が報道され、登録者が激減してしまった「ウィルウィル」は、輪花の働く結婚式場と共同の企画をスタートすることになります。アプリ婚殺人事件なのだからアプリと結婚が結びついてることが問題のような気がするのでこの企画は逆効果だと思いますが、かくして輪花は「ウィルウィル」のプログラマー影山と親しくなったので、吐夢の件で相談をすると、「この吐夢という人物は他のサイトでも問題を起こして逮捕されたこともある」という衝撃の事実が伝えられますが、そこまで把握しておきながら平然と「ウィルウィル」を利用させていることの方が衝撃の事実でした。ちなみにその後「ウィルウィル」の会社でエンジニアの一人が輪花と吐夢のやり取りを平然と見ているシーンもあって、これが本作で一番怖いシーンです。

 輪花は影山と良い感じになってデートを重ねていたある日、吐夢が輪花の自宅にやってきて、「影山とは会わないほうが良い」と忠告をしてきますが、ストーカーされていると思った輪花は「警察を呼びますよ!」と言うといつの間にか吐夢はいなくなり、代わりに警察官がいます。このシーンはおそらく家のドアをドンドン叩いてくる恐怖が実は違う人でしたっていうシーンを作りたかっただけではないかと思われます。

 ほどなくして再びアプリ婚殺人事件が発生します。被害者は冒頭で輪花が担当した元恩師とその妻でした。この件でかつて片思いをしていた輪花が、片思い相手から不倫相手、さらには殺人犯にまで格上げされ、仕事もできなくなってしまう。週刊誌にあることないこと書かれる様も描かれていて、適当にマスコミ批判を取り入れるためだけに元恩師で好きだった人設定にしたのかと勘ぐってしまいます。

 さらに、輪花が母の失踪以来、父親の芳樹(杉本哲太)と2人で暮らしている家のポストに、父親の若かりし頃と知らない女性の2ショット写真が送られてきます。少し前に知らない女性から電話がかかってきたこともあり、これが同一人物だと思った輪花は父親に問いただすと、父親はかつてパソコンチャットで知り合った女性と不倫をしていたことを認めます。芳樹は不倫相手に別れ話を切り出そうとしたら芳樹との子どもを妊娠していることを告げられ、それでも強引に別れようとしたら包丁で刺されたことが分かります。

 次の日、父親が書き置きをして家を出ていたことに気がついた輪花は、父親がかつての不倫相手に会いに行ったのだと思い、影山に相談します。一方その頃、同僚の尚美のところに吐夢が現れます。そのことを電話で聞いた輪花は、尚美のマンションに駆けつけますが、チャイムに応答がないので不在かと思って外に出たら、マンションのベランダから尚美が落ちてきます。密室状態のマンションの部屋から人が転落してきたのならば犯人は部屋にいるだろうと思いますが、同僚の死にショックでそれどころじゃないということにしておきましょう。ちなみにこのシーンはなかなかインパクトがありますので、次の章で詳しくネタバレします。

 その後、芳樹が橋の欄干で首を吊っている状態で発見されます。輪花は自分が不倫のことを責めたせいで自殺したんだと半狂乱になりますが、相次ぐ親しい人の死に取り乱しているのでそっとしておきましょう。父親の葬儀の後、影山から「吐夢について衝撃の事実が分かったので一緒に来てほしい」と言われ、廃墟になったアパートにやってきます。そこはかつて父親の芳樹の不倫相手の女性が住んでいた場所で、その女性は芳樹を刺したことで逮捕されたために、息子が施設に入れられてしまったのだった!そしてその息子こそが、吐夢、ではなく影山だったのだ!そうだったのかー。影山は自分の家庭をめちゃくちゃにした芳樹と輪花を恨んでいました。この件に関して輪花は1ミリも悪くないどころかその事実すら最近まで知らなかったので、恨むなら芳樹を恨むべきなのですが、それだと映画的に映えないので輪花を狙ったのだ!間一髪のところを吐夢がやってきて輪花は救われる。このあと影山に輪花が鉄拳制裁するシーンはなかなかの見ものです。

 影山は逮捕され、吐夢のアカウントで輪花に父親の不倫写真を送っていたことが分かりますが、アポートに連れて行った時点で自白しているようなものなので、この偽装工作は何ら意味をなしておりません。ちなみに影山が輪花を特定したのは、輪花が自分の部屋で適当に撮った「ウィルウィル」のプロフィール画面の後ろに小さい頃に書いた絵があって、そこに赤い服の女性と四つ葉のクローバーが書いてあったからです。影山の母親(芳樹の不倫相手)はいつも四つ葉のクローバーを栽培しているシーンもあり、幼少期の輪花に四つ葉のクローバーをあげているシーンもあるのですが、それだけで特定できます?

 輪花は吐夢に「真相を教える」と言われて山奥の一軒家に連れて行かれます。そこには車椅子にかけた赤い服の女性とその介護の女性と思しき人がいます。車椅子の女性が父親の不倫相手にして今回の事件の首謀者だと思った輪花は彼女を問い詰めますが、なんの反応もありません。そう、実はこの車椅子の女性が輪花の母親で、介護の女性らしき人物こそが父親の不倫相手だったのです!赤い服=不倫相手に違いないと思っていた私たちにここでもまたどんでん返しを見せてくれるのです!ちなみにここまで頑なに不倫相手の女性の名前を書いていないのは、映画の公式サイトに役名が載っているので、知っていると秒でネタバレするからですよ。輪花の母親は不倫相手に拉致されていたことが分かります(車椅子なのは両足が切断されているから!)。そして芳樹を殺したのは、「自分が愛した芳樹が愛していた輪花の母親を愛することは、結局芳樹を愛することになる。だから(本物の)芳樹は必要ない。」という超理論に基づいています。

 輪花は不倫相手にナイフで襲われるも吐夢が身を挺して守ります。その後、輪花の鉄拳制裁!が出たかどうかはわかりませんが、不倫相手は警察に逮捕されます。輪花は自分をかばって刺された吐夢を見舞いに行き、スニーカーとパーカーをプレゼントします。

 吐夢は退院後、逮捕された不倫相手の面会に行き、そこで物心がついたときに唯一持っていたペンダントに四つ葉のクローバーが入っていたことを示し、自分の母親が不倫相手であることを告げます。一方、影山は取り調べで、輪花の元恩師夫婦と尚美の殺害については認めますが、それ以外は自分の犯行ではないと供述します。実は元恩師夫婦を除くアプリ婚殺人事件はすべて吐夢によるものであることが示唆されて映画は終わります。

 

とまあ、ツッコミどころを拾いつつネタバレ全開で書いてみましたが、他にもやはり気になる点が多いんですよね。

1. 吐夢がアプリ婚殺人事件をしているのはなぜか?

 端的に言えば、吐夢の動機がよくわからないんですよね。自分が生まれてすぐに捨てられて不幸な境遇だったことは本人から語られていますが、その逆恨みで片付けられる話なのか。だとしたらアプリ婚に限定する必要はなく結婚した人を片っ端から狙っていけば良い話です。アプリで出会って結婚というのが不純で良くないものと考えた可能性もありますが、そういう考えに至るには、自分の親がパソコンチャットによって知り合った男性のせいで家族ごと不幸になったから、と思っている必要があります。ただ映画を見る限り、吐夢が母親を認識するのは映画の最後なのでこの考え方に至る根拠がありません。ちなみに原作を読まれた方のレビューによれば、吐夢は愛されずに育ったため、真実の愛とは何かを試すために、アプリ婚で結婚した夫婦が真実の愛で結ばれているのかを確かめるために、あのような殺人を行っていたということだそうです。にしても、アプリ婚したカップルをどうやって見つけ出すのかも疑問ですし、真実の愛を探すのであればアプリ婚よりも長い間付き合って結婚したカップルとかのほうが適しているのではないかとも思ってしまうので、原作の顛末を聞いてもなんだかなあという感じですね。ちなみに映画では、吐夢は特殊清掃の仕事をしていて腐乱した死体の指の写真を撮ったり、収集したりという癖を描いていましたが、特に何かに活かされることはありませんでした。

2. 影山の事件の目的は?手段は?
 輪花を狙う犯人は影山だったのですが、影山は輪花の元恩師夫婦と尚美の殺害を認めています。輪花の元恩師はかつて輪花が片思いをしていた人、というだけです。付き合った人ならまだしもそのレベルの人で、しかもすでに他人と結婚している人をわざわざ殺す必要があったのかは甚だ疑問です。この夫婦を殺すことで輪花にあらぬ疑いがかかり仕事ができなくなるので、輪花への嫌がらせとしては有効かもしれませんが、だとしたらアプリ婚殺人事件に似せる意味合いがありません。尚美の件も、吐夢が尚美に何かを忠告してその内容について輪花に伝えたいことがあるからと呼び出されたことが発端となるのですが、この呼び出しの電話の際に影山は輪花と一緒にいました。急いで尚美のところへ向かった輪花より先回りして相手を殺害するなんてできるでしょうか。この時点で尚美が吐夢から影山が真犯人の可能性を聞いていてそれを信じているとしたら影山には警戒をするはずです。そもそもこの段階で輪花は影山に対してなんの疑念も抱いていないので、尚美もそうですが吐夢の話を鵜呑みにするということも考えづらいです。尚美を殺害することで口封じするというのはリスクが大きすぎる印象があります。

3. 不倫相手の行動と時間軸
 今回の事件のきっかけとなった輪花の父芳樹の不倫相手の行動も釈然としません。上記に書いた部分もそうですが、他の気になる点として、なぜ吐夢を捨てたのか、です。吐夢は芳樹との子どもなので芳樹を諦めきれないのであれば、復縁を迫るとしても有効でしょうし、何より愛する人物の子どもなのですから手放すというのは理解ができません。この不倫相手の行動の時系列もよく分かりません。芳樹と別れ話になって刺してしまったとき、すでに妊娠はしていたはずなので、吐夢は獄中出産された子ということになります。傷害事件の懲役は一概には言えませんが、出所してすぐに吐夢をコインロッカーに捨て、その足で輪花の母親を拉致するぐらいのスピーディー展開でないと実現しなくなります。輪花の母親を拉致する際に車を使っていて、さらにその後25年間、輪花の母親を監禁状態で衰弱している印象はあったとはいえ最低限の食事などは与えていたでしょうから、そうなるといよいよ吐夢を捨てた理由がわからなくなります。
 その後、25年の時を経て、輪花の家に電話をしてくるのですが、これも目的がよく分かりません。廃人のようになった輪花の母親を見せつけるため、とかならまあ考えられなくもないのですが、先述した超理論によっていらない人認定されてあっさり殺されてしまっているので、この行為の意味も輪花に気づかせるぐらいにしか意味合いを見出せません。

4. 芳樹は妻の捜索願を出さなかったのか?
 輪花の母親は輪花が4~5歳ぐらいのころに失踪してそれきりになっています。芳樹からすれば自分が不倫をしていたので出ていかれても仕方がないとは思っているのかもしれませんが、それにしてはタイミングがおかしすぎです。不倫騒動の頃ならまだしもその1件で不倫相手が逮捕されてしばらく経っているこのタイミングには違和感を感じざるをえません。また輪花が生まれた後に不倫相手は輪花や家族の周りに姿を見せていたので、もしこのタイミングでなにかあったらこの不倫相手が原因だと思うのが自然ではないでしょうか。出ていったとしても輪花に対して全く愛情がないわけではないでしょうし、母親から何からのアクションがあってしかりだと思うので、やはり25年もの間音沙汰なしというのはありえない気がします。


あえてそれを死卍と呼ぼう。―映画における印象的な死体―

 とまあツッコミどころ満載なので、そういう楽しみ方ができれば本作はすでにお腹いっぱいといったところですが、先述したように内田英治監督作品の美的センスなのか、美術さんの力なのか、なかなか見ごたえのある画作りをしている印象があるのも本作の特徴です。とはいっても本作はサスペンス・スリラーなので、アプリ婚の被害者たちや吐夢の仕事現場など、インパクトはありつつも直視したくないようなそんな造形が随所に散りばめられています。その中でも特にオススメしたいのが、輪花の同僚・尚美の死に様です。彼女は自宅マンションから転落死するのですが、その死体が・・・卍?まるで卍を描いているかのような死体には思わず膝を打ちました。これは卍死・・・いや、あえて死卍と呼びましょう。卍と言えばヒンドゥー教や仏教では吉兆の良い形を表していて縁起の良いものとされています。それをあえて死体という不吉の象徴の造形に用いるとは・・・恐るべし。ぜひこの死卍を観るためだけにも映画館に足を運んでほしいです。

ジュマンジ

ジュマンジ

  • Robin Williams
Amazon

 

 映画における美しい死体と言えば、最初に思い出されるのはやはり「ツイン・ピークス」でしょうか。正確にはTVドラマでしたが映画版も一応ありますからね。デヴィッド・リンチ監督による衝撃のサスペンスでは日本でも空前のヒットを遂げましたが、その中で中心となる事件がローラー・パーマーの殺害事件です。この死体が当時「世界一美しい死体」と呼ばれ、日本でも追悼集会が開かれるほどの話題となりました。

 

 そして「ダ・ヴィンチ・コード」の死体もまた印象的です。ダウ・ブラウンの人気小説をロン・ハワード監督、トム・ハンクス主演で映画化したミステリー・サスペンスです。劇中でルーブル美術館の館長が死体となって発見されるのですが、その死体がレオナルド・ダ・ヴィンチの素描「ウィトルウィウス的人体図」を模していて、そのインパクトは事件そのものよりも大きかったです。

 

 日本映画の「死体の人」は、死体役専門の売れない役者にスポットを当てたドラマで、文字通り様々な死体役を演じるのでそのバリエーションが楽しめます。

 

 昨年「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」でアカデミー賞を受賞した"ダニエルズ"ことダニエル・シャイナートダニエル・クワン監督の出世作スイス・アーミー・マン」では、無人島に流れ着いた死体を利用して過酷なサバイバルの中で人生の意味を見出すという異色作ですが、これはもう世界で一番役に立つ死体ですね。調理器具から浄水器ジェットスキーにもなっていますからね。演じているのがハリー・ポッターことダニエル・ラドクリフなのもすごいですね。

 

 本作の死卍もいつか映画史における死体として語り継がれる・・・かもしれません。

 


ワンポイント心理学 ~クリティカル・シンキング

 今回はクリティカル・シンキングについてです。クリティカル・シンキングとは、課題や事象を捉える際に、その前提条件や状況、受け手のバイアスなどを含めて、考え方に偏りがあったり、間違った判断をしていないかを精査する思考方法のことを意味します。日本語では批判的思考と訳されるのが一般的で、それゆえ物事を批判的、否定的に捉えるというネガティブな意味合いで受け取られることもありますが、必ずしも批判や否定をしなければならないというわけではありません。
 クリティカル・シンキングでは客観的な視点で物事を捉えることを重視します。つまり自分では正しいと思っていることでも他の人の目線では正しくないということが考えられますよね。それによって物事の考え方が多角化、多様化するだけでなく、他の考え方や捉え方があり得るということが理解できることで、自分とは異なる考え方の人が存在することも受け入れやすくなります。
 つまり、たとえ自分の好きな映画を誰かに否定されたとしても、その人なりの視点での評価と考えれば理解できなくもないでしょうし、一見駄作に見える作品でも視点を変えてみれば面白いところがあるかもしれない、そういう発想の転換を実現するのがクリティカル・シンキングです。ほら、もう気がついたらこの映画のレビューだけで1万字近くも書いてしまいました。1万字、いちまんじ、卍・・・。

映画「夜明けのすべて」感想 ―原作と映画の親和性―

 

「夜明けのすべて」概要と感想

 瀬尾まいこの同名小説を「きみの鳥はうたえる」「ケイコ 目を澄ませて」の三宅唱監督が映画化したドラマ。主演は上白石萌音松村北斗。共演に渋川清彦、光石研、りょう、他。
PMS(月経前症候群)により月に1度イライラと体調不良で自分を制御できなくなってしまう藤沢さん(上白石萌音)。仕事を転々とし、今はアットホームな雰囲気の小さな会社「栗田科学」で働いていた。ある日、そこに転職してきたばかりの山添くん(松村北斗)の態度に怒りを爆発させてしまう。しかし、そんな山添くんも実はパニック障害を抱えていたことが分かり・・・。

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

 前回の記事の「ボーはおそれている」感想で不安障害について触れましたが、本作ではその一つであるパニック障害が取り上げられています。ただその描き方は実に対照的というか、「ボーはおそれている」では不安や恐怖が最悪な形で具現化しているように映し出されていましたが、本作ではいたってそんなことはありません。だからこそ、実際の症状としてはリアルに捉えることができるかもしれません。

「ボーはおそれている」については自分のブログで感想を書いていますので、興味のある方は、以下のリンク先の記事をご覧ください。

sputnik0107.hatenablog.jp

 主人公の一人、藤沢さんはPMS(月経前症候群)により、生理の周期に合わせて、つまりは月に1度はイライラと体調不良が襲ってくるという状態になっています。冒頭のシーンでは、藤沢さんのイライラが爆発したシーンが描かれていて、何気なく資料のコピーを頼んだ上司がイライラをぶつけられています。その後薬を服用して対処しようとしますが、副反応で眠くなってしまい、仕事中に眠ってしまうという失態をしてしまいます。その後藤沢さんは自主退職して、いくつか仕事を転々とした後に栗田科学に入社しています。

 一方、山添くんもパニック障害が原因で前の職場にいられなくなり、上司(渋川清彦)の計らいで栗田科学に転職してきます。ただ仕事中もどこか上の空のような雰囲気で、藤沢さんが(周囲にイライラをぶつけたお詫びに)買ってきたお菓子を受け取らなかったり、来客に挨拶しなかったりという行動がまた藤沢さんのイライラに拍車をかけてしまいますが、決定的なトリガーとなるのが山添くんが炭酸のペットボトルを開ける音!さすがにこれはちょっと理不尽すぎるとも思ってしまいましたが、そんなこんなで2人の出会いと印象を描いてくれています。

 その後、山添くんが会社でパニック障害の症状が出てカバンの中を必死で探しているのですが見つからずにパニックになっているところを、藤沢さんが気づきます。自分もかつて処方されたことのある薬だからすぐに分かったというのも頷ける演出でした。このことがきっかけで藤沢さんは山添くんに理解を示すようになります。そして予告編でも流れていた藤沢さんが山添くんの髪を切るシーンにつながっていくのですが、このシーンでも分かるように藤沢さんのややもすればおせっかいの押し売りのような行為が、山添くんの心を動かし、山添くんの方も藤沢さんに理解を示そうとします。この関係性が見ていて非常に微笑ましいのですが、それは2人が傷の舐め合いではなく、どちらかと言えばボケとツッコミの応酬のような形でいるので、それが2人の関係性を良い方向へと持っていきながら、さらには見ている側にも温かい空気感をもたらしてくれています。
 そういう印象を受けるのは、やはり主演の二人の個性と演技によるものも大きいと思います。藤沢さんも山添くんも冒頭の登場シーンで何も理解せずに見たら第一印象は、「自分のそばにいたら嫌だなあ」になると思います。それぐらい自然に演じているということでもあると思いますが、だからこそ自分の身近にいてもおかしくない存在として描くことに成功しているとも言えます。
 さらに、2人を取り巻く人々もまた彼らに対する接し方が素晴らしいです。栗田科学の面々は比較的年齢が高めの人が多いのもありますが、2人を理解し(と言っても山添くんは自分がパニック障害であることを公表していないのですが)、2人に過度に干渉するでもなくかといって放任するでもなく絶妙な距離感を保って寄り添っている印象です。PMSパニック障害も症状が現れていないときは普通に仕事や生活もできますし、外側からはそうした障害があることが分かりづらいということもあって、どう対処してよいか分からない(藤沢さんの前職の人たちがまさにそれですが)というのが一般的な反応や理解なのではないかと思います。栗田科学の面々は、病気や症状などに詳しくなくても、おそらくは経験的にどう対応するべきかというのが分かっているのでしょう。そんな彼らの存在が映画全体の優しい空気を生み出す要因にもなっています。また、栗田科学の社長(光石研)や山添くんの元上司(渋川清彦)はそれぞれ過去に愛する家族を失った経験があります。なので、より一層人に寄り添うことの大切さを理解していたのかもしれません。

 

藤沢さんと山添くんの対称性

 本作の主人公の2人、藤沢さんと山添くんは似て非なる部分があるのもまた両者の相互理解が深まっていった要因とも言えます。その点についてピックアップしてみたいと思います。

1. PMS(月経前症候群)とパニック障害
 藤沢さんはPMS(月経前症候群)で、山添くんはパニック障害との診断をそれぞれ受けています。PMSの説明は先にも書きましたが、女性の生理の周期と付随して症状が現れることが多いので、不幸中の幸いとも言うか、発症の時期をある程度推測することができます。そのあたりを山添くんが察知して周囲にイライラを撒き散らすのを阻止するというシーンも出てきます。対してパニック障害は最初の発症のタイミングも「ラーメンを食べていたら急に味がしなくなった」というようにいつ何時起こるかが分かりません。だからこそ電車のような公共交通機関、長時間拘束される美容室などを利用することができなくなるわけです。

2. 症状の捉え方
 藤沢さんが山添くんがパニック障害であることを理解するシーンがありますが、その段階で山添くんはPMSのことをよく分かっておらず、パニック障害の自分よりは軽い症状なのではないかと考えている節があります。1にも書いたように発症の予測可能性でいくと確かにPMSの方がある程度予測できるというところはありますが、症状としてはピンキリなので一概にどちらが軽い、どちらが重いとは言い切れないでしょう。また高校時代からずっと病気と付き合ってきた藤沢さんに対して、山添くんは社会人になってから発症しているので病歴としては短く、自分自身ですら自分の病状をうまく把握できていないのではないかと思われます。藤沢さんは副反応を嫌ってか極力薬を服用しないようにしているのに対し、山添くんは薬がないと不安が増長してしまうと考えているのもまた対象的です。
 ただこのズレこそが相互理解につながっていったという印象もあります。自分の好きな映画で「スリー・ビルボード」という作品がありますが、娘を失った母親がある男に対して差別的な意識を問題視しているのですが、その後、差別意識などないと思っていた自分もまた別の人を下に見ていたということを理解します。そういう存在があることで気づかされるというのは本作にも通じるものなのではないかと思いました。

 

3. 病気の公表
 藤沢さんは自分がPMSであることを公表しています。映画では「職を転々とした後で今の栗田科学に来た」というぐらいしか触れてなかった気がしますが、原作ではPMSを公表したことで転職活動自体も大変だったことが示されています。こうした症状がある人を受け入れる企業が少ない、ひいては社会的な理解が得られにくいということを示しています。対して山添くんは病気のことを公表していません。元上司や元恋人、栗田科学の人はなんとなく気がついている可能性はありますが、明確にパニック障害であると認識しているのは藤沢さんのみです。だからこそ彼女に影響を受け、彼女を理解しようとし、結果的に相互に助け合える存在となっていくのです。

4. 仕事への向き合い方
 藤沢さんは仕事に真面目に取り組んで一生懸命やっている印象です。彼女自身は自分が仕事ができると思っていないかもしれませんが、原作の方では山添くんが「藤沢さんは仕事ができる」と明言しています。一方、山添くんは自分はかつて仕事がバリバリできるタイプだったためか、栗田科学での仕事を若干下に見ている印象があります。元上司とのオンライン通話で元の職場に戻りたい旨をアピールもしています。ただこれは前の仕事は目に見えないプレッシャーが大きくてそれがストレスとして蓄積していったのが病気の原因となった可能性も考えられますね。だからこそ元上司は栗田科学を紹介したのだというのも容易に推測できます。そんな二人が協力して仕事をしていくというのもまた良いですね。


原作と映画の親和性について(ネタバレあり)

 本作も映画鑑賞後に原作を読みましたので、まずは原作と映画の違いから書いていきたいと思います。
映画の終盤に関わるネタバレを含みますので、未見の方はスルーをお願いします。

 

1. 「栗田金属」と「栗田科学」
 一番大きな違いはこれでしょうか。原作では2人が勤める会社が栗田金属となっていて、ネジや釘といった金属製の部品を製造する会社となっています。映画では栗田科学となっていて、小学校の理科実験などで使う教材を製造する会社となっています。この違いが一番大きく影響するのが、終盤で二人が協力して実現するプロジェクトです。原作ではどのような部品があるかを一般の人にも伝えるために倉庫見学ツアーのようなものを企画します。それが映画では小学校の体育館で実施するプラネタリウム体験になっています。この企画には栗田科学の社長の弟のエピソードもうまく絡んで行くし、映画としての絵面を考えたときにも有効でしたので、良い変更だったのかもしれません。

2. 「栗田金属(科学)」の社長と山添くんの元上司
 原作では栗田金属の社長はそれなりに登場しますが、山添くんの元上司は物語上には登場してきません。山添くんの家のポストに差出人不明のお守りが入っていたというエピソードがあって、それが元上司であることが後に分かるぐらいです。また原作ではこの二人の接点は全く描かれませんが、映画では2人がともに親族を失った人たちのグループワークのような集会で出会っていることになっています。
 原作でも栗田金属の社長の弟がすでに亡くなっていることが示されますが、どのように亡くなったのかはだいぶぼかされていますが、映画だと自殺の可能性が高いことを示しています。それゆえ栗田科学の社長をはじめとして会社全体で人に寄り添いたいという気持ちが現れています。原作では山添くんの元上司の詳細は明らかになりませんが、それでも山添くんをずっと気にかけているということが、後半の山添くんの気づきによって明らかになっていきます。

 他にも違っている部分はありますが、全体の印象としては原作のほうが藤沢さんと山添くんの2人の関係性ややり取りにかなりウェイトを置いていて周囲の人とのやり取りはあまり描かれません。映画のほうがもう少し周囲の人々は空間を捉えているという印象があります。

 瀬尾まいこ作品は自分が過去に読んだものは、中学生の駅伝チームを描いた「あと少し、もう少し」と、こちらも映画化もされている「そして、バトンは渡された」ぐらいですが、個々のシーンの何気ない会話だったり思いやりを感じる作風という印象がありました。

 

 そして本作の三宅唱監督は、函館を舞台に若者たちの自堕落にして奔放な日々を描いた「きみの鳥はうたえる」や、耳の聞こえない女性ボクサーを描いて昨年話題となった「ケイコ 目を澄ませて」がありますが、いずれも大きな事件や出来事を描いたものではなくなにげない日常の一コマを描いている印象でした。
 本作はそれがうまく融合した形になったと思います。原作の2人の関係性はお互いがお互いを理解し助け合いたいという気持ちはあっても、恋愛要素を感じさせることはありません。変にドラマとして盛り上げようという意識がないのが2人の距離感をうまく表していて、それが映画でも健在でした。また三宅唱監督は本作を16mmのフィルムで撮影したということで、やや粗めのざらついた印象のある絵が多いのですが、それが独特のぬくもりを生み出すことに成功しています。過去作でも長回しで雑感を取り続けたり、日常の一コマを切り取ったようなカットが印象的なのですが、本作でも会社の外の弱いけど確かな冬の日差しだったり、素朴ながら温かいプラネタリウムドームなど、そこかしこに優しさを感じさせる柔らかい絵が存在していたように思います。この原作と映画の親和性こそが、本作の魅力を高める要因となったのかもしれません。

 

ワンポイント心理学 ~共依存

 不安障害については前回の記事で書いたので、今回は共依存についてです。共依存とは、家族や恋人、友人などがお互いにお互いに対して過度に依存してしまうことを意味します。もともとはアルコール中毒の患者とその家族に対して用いられる言葉でした。アルコール中毒の患者に対して家族が何かとケアをしすぎることで、患者がそれに甘えてしまい症状がますます悪化してしまうという事例が多く報告されたことで共依存という呼称になりました。現在は先述したような広義の意味合いで用いられることが多いです。本作でも藤沢さんと山添くんがもし恋人同士となっていった場合、価値観や判断基準がお互いに委ねられすぎて、他の人と関わらなくなってしまうような形になってしまったら、まさに共依存の状態となってしまっていたかもしれません。当事者がより広い視野を持って物事を捉えられるようにすること、そして様々な他者への理解を示すこと、そのような環境が当たり前な世の中にしていかなければなりませんね。

 

映画「ボーはおそれている」感想 ―アリ・アスター監督作品における母親像と不安障害―

 

「ボーはおそれている」概要と感想

「ヘレディタリー/継承」「ミッドサマー」のアリ・アスター監督が、「ジョーカー」のホアキン・フェニックスを主演に迎えた異色のオデッセイ・スリラー。
神経症で極度の不安を抱えるボー。ある日、母親が怪死したという連絡を受ける。状況がよくわからないままアパートを飛び出したは良いが、次々と予測できないトラブルに巻き込まれ・・・。

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

 アリ・アスター監督は、出世作の「ヘレディタリー/継承」では、祖母の他界をきっかけに家族に生じる異変を描き、「ミッドサマー」では、家族を失って傷心の主人公が訪れたスウェーデンのとある村で繰り広げられる夏至祭の恐怖を描いています。
両作品に共通して、家族の喪失、そして安息の場所であるはずの家を恐怖の根源としているということが挙げられます。

 本作でも父親がすでに他界していて、さらには母親が怪死したという連絡が入ることが物語の冒頭にもなっています。ボーの帰省の過程で、母親との関係が良好なものではないことが明らかになっていき、本作もまた過去のアリ・アスター作品に通じる部分があります。

本作は明確な章立てこそありませんが、4部構成になっています。

 冒頭のパートはボーの暮らすアパートとその周辺での出来事が描かれています。何も音を立てていないのに隣人から怒鳴られ腹いせに大音量の音楽を流されてしまう、服用した抗不安剤を水なしで飲んでしまい、ネットで調べたら水なしで飲むと死に至る危険性があると知り、あわてて水を飲もうとするも断水で、決死の覚悟で向かいにあるコンビニエンスストアに水を買いに行く、その隙にホームレスに家を占拠されてしまう・・・という悪夢の連鎖が映し出されます。
ただこれが現実かどうかは明示されません。
 ちなみにボーがセラピストから処方された”Zypnotycril”という抗不安剤?は実在しない架空のものになっています。また水を飲まずに服用すると思ったような効能が得られないことはあっても、死に至るまでの副作用があるというのは考えづらいですね。
 また、どう考えてもボーの暮らす町がディストピアすぎるのでやはりこの章の大半はボーの妄想や強迫観念と捉えるべきでしょうが、この描写がアリ・アスター監督の真骨頂といったところで本作の中でも一番インパクトがあったように思います。

 2つ目のパートは、錯乱するボーを車で轢いてしまった女性グレースの家のシーンです。
グレースと外科医の夫ロジャーの家で怪我の回復のため療養することになり、ここでは一見安らぎの空間のように見えますが、この家の娘のベッドをボーが占有してしまっている、長男が戦争で亡くなっている、長男の軍隊時代の仲間で今は夫婦が面倒を見ている退役軍人のジーヴスは戦争後遺症で心神喪失状態にある・・・と不穏な空気を感じさせます。そしてグレースに「チャンネル78を見て」と告げられます。

 3つ目のパートは、グレースとロジャーの家を飛び出して迷い込んだ森で、「森の孤児たち」という演劇グループの舞台を観劇するシーンです。
このシーンでは、観客だったボーがいつしか出演者になっているという客観と主観が混ざり合っていきますが、さらにはアニメーションまで登場してくるカオスぶりです。
このアニメーション部分は昨年日本で公開されたチリのアニメ映画『オオカミの家』の監督クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャが手掛けているそうです。

そして最後のパートでようやく母の家にたどり着くということになります。

 各パートの終わりでボーは意識を失っているため、この全てがボーが体験していることなのか、妄想や幻覚なのか、見ている側もわからないままに映画は進んでいきます。
監督自身は「ロード・オブ・ザ・リング」になぞらえていますが、精神世界をも含んだ旅路はまさに悪夢でしかありませんね。

 本作は監督の念願の作品だったそうで、スケール感で言えば過去2作を圧倒している部分もありますが、現実とも幻覚とも分からないような悪夢のロードムービーになっているため、見ている側の精神状態も問われるような気がします。メンタルがやられているときには絶対に見ないほうがいいですね。
 しかも180分という長尺で内容が母親との確執が軸として描かれているため、いわば家族(それも自分がよく知らない人物)の愚痴を延々と聞かされているような印象があります。
 アリ・アスターは「ヘレディタリー/継承」より前に本作の構想や脚本があったそうですが、当時のプロデューサーに却下されて、それがようやく実現したということですが、確かにこれがデビュー作だったらここまでやりたい放題に作品も作れていなかったでしょう。また本作の興行収入が芳しくないのもそういった原因があるのかもしれませんね。

ミッドサマー(字幕版)

ミッドサマー(字幕版)

  • フローレンス・ピュー
Amazon

ボーと母親の関係性について(ネタバレあり)

 ボーと母親のやり取りは冒頭では電話でのみ行われていますが、そこでは「愛してる」とも言っていますし、愛情を抱いていないわけではなさそうです。ただし、それ以上に母親の存在を"おそれている"という印象が強いです。映画の中ではボーの少年時代は回想で出てきますが、青年時代は描かれていないため、その間にボーと母親の間に何があったかは分かりませんが、家を出て一人で暮らししている、現在は重篤な不安障害を抱えて定期的にカウンセリングを受けている、ということから母親から離れなければならないと考えて行動に移した結果として現在があるとも考えられます。
 母親に支配されているという点では昨年公開(製作は1994年ですが)になった「悪い子バビー」とも共通していますが、完全に監禁状態だったバビーと比べると、少なくとも家の外に出て一応は生活できているという時点ではボーの方がまだマシかもしれません。外の世界に出ていてもなお母親の支配から逃れられないという方が嫌かもしれませんけどね。

 一方で母親からボーに対する思いはどうなのでしょう。本作の冒頭ではボーが母親の胎内から出てくるところが描かれています。この間に母親らしき女性のセリフからも、母親にとって赤ちゃん(ボー)は愛情の結晶などではなかったのでしょう。ボーの母親は大企業の社長で、立派な屋敷に住んでいることからもビジネスマンとしては成功者であることが分かります。それゆえサクセスロードを歩む上での足かせとなるとでも思ったのかもしれません。これはすでに亡くなっているボーの父親に対する意識でもそのように感じられます。
 それでもわざわざボー(Beau)という名前をつけていますし、語源では美を意味するということからも全く持って愛情を持っていなかったとは限りません。少年時代の回想では、厳しさこそあれどクルーズ旅行に行っていますので、虐待やネグレクトといったこともなかったと思われます。ただ帝王学ではありませんがいずれは自分の後継ぎとして考えている部分もあったとすれば、かなり厳しく教育やしつけを受けたことは容易に想像できますね。

 


母親の存在の神格化(ネタバレあり)

 このようにボーにとって母親は愛情以上に畏怖の存在となっているわけですが、映画のそこかしこに母親の支配下であることを示すサインが出てきます。
 映画の最初の配給会社や制作会社のロゴなどが表示される段階で、一緒に「mw」というロゴが表示されます。これは母親のモナ・ワッサーマンのイニシャルで、おそらくは母親の企業のロゴなのでしょう。この映画そのものが母親の支配下、管理下にあることを示しているという要素になっています。
 また、母親の家にでかでかと飾ってある母親の肖像画が出てくるのですが、これが多くの人間(母親の会社の従業員)でモザイクアートのように構成されていて、その写真の中には最初に助けてくれたロジャー、住んでいる町でひときわインパクトのあった全身タトゥーの男、カウンセリングをしてくれているセラピスト、そして、少年時代の回想でボーの初恋の人として描かれているエレインなどがいます。一見ボーは独立した生活を送っているように見えてその支配下にあることを示しているばかりか、初恋相手だったエレインすらもどこからか見つけ出して従業員にしているというのは、単なる偶然ではなく、ボーへの影響力を考えてのことだと思うと戦慄してしまいます。
 さらに、ボーの住む町での看板に書かれている「Jesus sees your abominations(直訳的には、神はあなたの忌まわしさを見ている、といったところでしょうか)」を始め、神の啓示のようなメッセージも映画に頻繁に登場します。これまで書いてきたようにボーの母親がこの映画そのものを支配しているとしたら、ボーの母親=神という捉え方も不自然ではないので、これらのメッセージもそのままボーの母親からボーに向けてのメッセージとも受け取れます。他にも、ボーの浴室にある写真、ボーが母親の手土産にしようとしていた聖母子らしきものをかたどった陶器の置物、そして母親の家にある巨大な女神像などがそれを暗示しています。
 この母親の存在の神格化がラストシーンをまさに神の審判のような構図につながっていきます。先述したモザイクアート、そしてこの神視点での描き方という部分では、ジム・キャリー主演の「トゥルーマン・ショー」を思い出します。

 

水(water)は人を生かしもするが、殺しもする。(ネタバレあり)

 本作では水もまた重要なモチーフになっています。冒頭のカウンセリングのシーンでボーが水槽を眺めているのに始まり、ボーの住むアパートが断水状態になっていて(ボーの妄想かもしれませんが)、水と一緒に服用しないといけない薬を水なしで飲んでしまったことで、意を決して外に出て向かいのコンビニエンスストアに向かうという展開になります。ついには入浴中に浴室の天井に張り付いていた男が落ちてきたことでボーは裸のまま外へ飛び出してしまいます。
 少年期の回想シーンでもエレインとの出会いのシーンで、クルーズ船のプールで水死体が上がっています。そしてラストのシーンはボーが舟で漕ぎ出した場所になっています。
 モナの(ボーのでもありますが)苗字のワッサーマンのワッサーもドイツ語で水という意味で、映画全体を通じて水との関わりが表現されています。水はもちろん生きていくためには不可欠ですが、水死、溺死など命を奪う存在ともなり得ます。そしてやはり羊水のイメージもあります。生まれてくるシーンの回想から始まり、ラストもやはり羊水をイメージしていると言えるでしょう。羊水に始まり羊水に終わる冒険がまさに本作に意味するところだったのかもしれません。

 とまあ難解な部分も多いですが考察のしがいがあるのがアリ・アスター監督作品に共通するところでもあります。本作の場合それ以上に不快感を増幅させるようなシーンが続くので、アメリカでも賛否両論だったのは大いに理解できるところです。アリ・アスター監督自身の体験をベースに作られているということで、どんだけ嫌な家庭で育てられたんだよ、と思わないでもないですが、プレミア上映では母親も招待したとのことで、実際にはそこまでの確執はあるわけではないかもしれません。アリ・アスター監督の次回作は新型コロナウイルス感染拡大下のメキシコを舞台にした西部劇(!)ということでまたどのような世界が描かれるのか楽しみにしたいところです。
 

ワンポイント心理学 ~不安障害~

 主人公のボーに対して明確な診断名を下すシーンはなかったかと思いますが、不安障害(および注意欠陥・多動性障害(ADHD)の併発)という印象です。不安障害は、心配や不安が過度に感じることでその対象や状況を回避しようとすることで日常生活に支障をきたすものの総称です。突然極度の不安を感じて動悸やめまい、過呼吸などの症状が現れるパニック障害、人前や他者がいる場所で極度に緊張して発汗や震えなどの症状が現れる社会不安障害(以前は対人恐怖症という呼称でした)、手をいくら洗っても汚れが気になる、外出時に部屋の鍵をかけたかが極度に気になるといった強迫性障害などが代表例です。本作の1つ目のパートであるボーの住む町での描写はその極端な例であると言えるでしょう。
 ただ不安や心配、緊張というのは脅威から自分の身を守るための信号であり、多かれ少なかれ誰もが抱く感情でもあります。それゆえ、どこからが障害となるのかという線引きが難しく、とりわけこの境界線近くにいる人は周囲から理解されにくいなどの二次的な問題が生じることもあります。本作はかなり極端な例だとは思いますが、このあたりは周囲の理解やサポートが重要になってくると言えます。このあたりは瀬尾まいこ原作の小説で同時期に公開された「夜明けのすべて」でも描かれています。次回はこちらの作品のレビューをする予定です。