映画最高!(Cinema + Psycho)

映画に関するあれやこれやについて綴っていきます。映画の感想をメインに、映画にまつわるエピソード、そしてワンポイント心理学を紹介していきたいと思います。

映画「落下の解剖学」感想 ―延々と語り合いたい考察系映画のススメ―

「落下の解剖学」概要と感想

カンヌ国際映画祭パルム・ドールに輝き、アカデミー賞にもノミネートされたフランス映画。
人里離れた山荘で転落死をした夫の殺人容疑をかけられた妻の裁判で次々と知られざる秘密が明らかになっていき・・・。
監督はジュスティーヌ・トリエ、出演は、ザンドラ・ヒュラー、スワン・アルロー、ミロ・マシャド・グラネール、他。

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

 

 冒頭、フランス、グルノーブルの人里離れた場所にある山荘。ある女性の作家サンドラ(ザンドラ・ヒュラー)が女子大学生からインタビューを受けています。作家はリラックスした雰囲気で終始和やかな雰囲気でインタビューが続いていきます。後ろに大音量の音楽が流れていることを除けば。このときに流れているのが50centの「p.i.m.p.」というのもいかにも象徴的。インタビューがままならなので次の機会に改めてということで女子大学生は帰っていきます。それからほどなくして、息子のダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)が飼い犬のスヌープの散歩に行きます。ここでダニエルが視覚に障害があること、スヌープが盲導犬でもあることが分かります。家に戻ってくるとスヌープが異変を察知します。一面の雪の上であまりにも目立つ赤。倒れている男性が父親サミュエルであると分かったダニエルは叫び声をあげます。

 以上が冒頭のシーンなのですが、観ている側を物語に引き込んでいく巧みな構成だと思います。一見して日常のありふれた風景のように見えるのですが、そこに垣間見える非日常性が印象的です。例えばインタビュー中なのにあたかもそれを邪魔するかのような大音量の音楽、インタビューされている当の本人も騒音について注意もしにいかないというのが違和感を感じさせます。また、ダニエルが視覚に障害があるため、地面に人が倒れていること、それが父親であることに気がつくまでだいぶ時間があります。観ている側はすでに画面に映っているので分かるのですが、この絵もまた日常に飛び込んできた非日常となっています。

 夫はそのまま息を引き取ってしまいますが、その死には不可解な点が存在します。落下したであろう山荘の3階の部分から倒れていた場所が離れていること、血痕が付着している場所が点々としていること、傷跡が落下のタイミングでできたものではない可能性があること、などがあり、警察も事件性を考慮して捜査を開始します。結果として、殺人の容疑で妻が逮捕され、裁判にかけられることになります。夫の死は、事故なのか、自殺なのか、それとも妻による殺人なのか、裁判によって真実が明らかにされるのか・・・という話ではありません。本作はそもそも真相の究明に全くベクトルが向いていません。妻の弁護士として古い知り合いのヴァンサンという男が担当することになりますが、妻が「自分は殺していない」とヴァンサンに伝えたのに対し、ヴァンサンは「それは重要ではない」と言い放ちます。フランスでは陪審員制の裁判が行われているようで、陪審員の心証が裁判を決定づけるということもあるのでしょう。
 さらに、この件を殺人と断定するには決定的に不足しているものがあります。それは凶器です。夫が転落前に鈍器のようなもので殴られているとした場合、その凶器があるはずですが、事件後の捜査では見つかりません。つまりは決定的な証拠は存在しないということになります。殺人だとした場合の実行可能性で言えば、犯行時間はダニエルがスヌープを散歩している間になり、このとき家にいたのは殺された夫と妻しかいないのですから、妻のみとなります。本人は部屋で寝ていたと言っていますがそれを証明することはできません。状況証拠しかない状態で裁判が始まります。観ている側も傍聴席で一緒に裁判の成り行きを見守る形で映画を観ることになります。
 証拠が不十分な状況で、重要視されてくるのが息子の証言になってくるのですが、先述したように息子のダニエルは視覚に障害があるため現場を"目撃"することはできません。両親が激しい口論をしていたかもしれないという件を検証しますが、大音量の音楽でははっきり聞き取ることができない、いや家の中なら可能ではないか、など現場検証も行っていきますが、ダニエルも決定的な証言をすることができません。ちなみに第一発見者であり唯一の目撃者はスヌープになりますが、動物目線でしか真相がわからないというのは、まさに原題がその通りの「悪なき殺人」(原題は、「Only the animals」:動物だけが知っている)なんかもそうでしたが、こちらは観ている側も真相が分かるのに対し、本作では本当にスヌープしかわからないとも言えます(スヌープも決定的な現場を見たわけではありませんが)。このスヌープを演じたのはメッシという犬なのですが、この演技でカンヌ映画祭で犬に与えられる賞、その名もパルム・ドックを受賞しています。本作を観るとそれは大いに頷けます。

 かくして裁判では、この夫婦関係にスポットが当てられていくことで、一見仲睦まじい家族に見えたのが、そのメッキが剥がされていくという展開になっていきます。このプロセスをタイトルにもある解剖学という言葉でなぞらえているのでしょうが、往年の映画ファンには有名な「或る殺人」という1959年の作品の原題が「Anatomy of a murder」で、ある殺人事件の裁判を通じて容疑者とその妻の関係が明らかになっていくという構図も一致しています。本作も「或る殺人」もそうですが、映画の大半が法廷劇、法廷でのやり取りや会話が中心となっていて、絵的にはかなり地味です。そうした部分でアカデミー賞の作品賞受賞にまでは届かなかったのかもしれません。また先述したように本作は真実を明らかにしようという方向に誰も動いていないため、最後まで観ても何が真実かは断言できません。自分なりの解釈や人それぞれの考察を楽しめる人には向きますが、観終わって釈然としない印象が残る人もいるかと思います。なので観る人を選ぶタイプの作品であると言えますね。


夫婦の関係性とパワーバランス

 本作のもう一つの特徴として、この夫婦の関係性があげられます。妻のサンドラはドイツ人で、夫のサミュエルはフランス人です。2人はロンドンで結婚して生まれたダニエルと共にそこで暮らしていましたが、ダニエルが事故で視覚に障害を持ってしまい、その治療費がかさむということで夫の出身地であるフランスに居を構えるようになっています。家族は基本英語で話をしますが母国語が異なっているというのも、夫婦間の微妙なディスコミュニケーションを示しているようです。さらに、裁判はフランスで行われており、サンドラが供述の際にフランス語がうまく出てこずに「英語で良いかしら?」と確認するシーンがあります。このあたりも裁判におけるサンドラの孤立感を示している印象がああります。
 それからサンドラはベストセラー作家で、サミュエルは学校の教員をしながら小説の執筆活動もしているということでしたが、少なくともフランスに移住してからはあまり働いているような描写が感じられなかったので、さしづめ専業主夫といった状況になっています。ダニエルが目が見えなくなってしまったきっかけの事故も、サミュエルが迎えに行けなかったことが原因とされているようで、サミュエルはサンドラに引け目を感じているとも言えます。
 フランスにおける夫婦関係は分かりませんが、一般的な家庭とはパワーバランスが逆転しているといって良いでしょう。それもまたこの事件の真相を見えづらくしている要因でもあり、同時にこの事件の引き金ともなっているのです。
 息子のダニエルの目にはどのように映っていたのでしょうか。ダニエルは裁判が続いている終盤で自分が2度目の証言をする機会を得ますが、その裁判の日まで母親と一緒に過ごしたくないということを吐露します。これは裁判の過程で母親の真の姿が明らかになってきたこともあるかもしれませんし、もちろん父親を殺したかもしれない人と一緒にいたくないという感情もあったのでしょう。一方、父親に対してはどのような感情を抱いていたのでしょうか。ダニエルと父親のシーンも終盤にダニエルの回想という形で出てきます。車の中で飼い犬のスヌープの具合が悪いという話で、父親はスヌープが自分たちよりは先に死んでしまうことを告げ、命の儚さ、尊さを伝えるという、親としての厳しさと優しさを体現しているかのようなやり取りになっています。ただこのシーンもまた・・・。
 子どもはやはり養育者として自分の世話に大きく関わる方に愛着を抱きやすいものです。それが一般的には母親であることが多いので、両親が離婚するとなった場合に母親のほうが親権が認められやすいということにもつながったりするのですが、この実の親と養育者の関係性を描いた作品として、「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」を挙げたいと思います。1960年代のアメリカ南部が舞台で、黒人メイドの視点で差別の問題が描かれているのですが、この作品で興味深い点は、白人の上流階級の女性は自分磨きにばかり意識が向いていて子どもの世話を黒人のメイドに任せきりなので、子どもたちは黒人のメイドに懐いています。養育者の存在の重要性が雄弁に語られている作品です。

 

観た人と延々と語りたい!考察系映画

 先にも書いたように、本作は観る人によって評価も分かれそうですが、それは言うなれば観る側に解釈の幅がある、どのように理解するかは観る側に委ねられるとも言えます。こうした"考察系映画"をいくつか紹介したいと思います。

羅生門
黒澤明監督が、芥川龍之介の「藪の中」を元にした作品。ある武士の殺害事件についてそれぞれの立場の食い違う証言が出てくるという時代モノサスペンスです。真相は藪の中という言葉が日常的に使われるようになったのも本作(とおよびその原作)の影響と言えるぐらいの不朽の名作です。

 

 

インセプション
クリストファー・ノーラン監督のSFサスペンス。人の潜在意識にアクセスして情報をコントロールできる近未来を舞台に、危険なミッションに挑む主人公たちの姿を描く。「ダークナイト」の大ヒットを受けて自身のオリジナル脚本で打って出たクリストファー・ノーラン監督の渾身の作品ですが、人の潜在意識の階層性があり、そこが現実なのか、潜在意識なのかの区別がわかりにくいのがポイントです。ノーラン監督作品は難解なものが多いので、「インターステラー」や「TENET テネット」もその類と言えるでしょう。

 

哭声/コクソン
ナ・ホンジン監督・脚本による韓国製のサスペンス・スリラー。田舎の村で村人が自分の家族を惨殺する事件が連続して発生する。犯人はいずれも正気を失った状態で、体に謎の湿疹が現れていた。警察は事件の発生時期と同じくしてこの村に住み着いた謎の日本人に疑いの目を向ける。キリスト教をベースにした異色のサスペンス・スリラーとなっていて、これも解釈が幾通りも可能な作品となっています(今は監督のコメンタリーや本編からカットした映像もあるので結論は定まっているのかもしれません)。

哭声/コクソン(字幕版)

 

「怪物」
是枝裕和監督、坂元裕二脚本によるサスペンス・ドラマ。シングルマザーの早織は、息子の不可解な行動が担任の教師・保利の発言にあると思い、学校に問いただすも学校側はおざなりな対応に終始して・・・。
早織の目線、保利の目線、そして子どもたちの目線とそれぞれの目線で実際に映像化されているため、観ている側は困惑しやすい表現になっています。「羅生門」(「藪の中」)のような構成を彷彿とさせる作品です。是枝裕和監督は「三度目の殺人」も同様に考察系映画になりますね。

 

これらの作品は観た人と延々と語りたくなること請け合いです。「哭声/コクソン」を観たときは語り合いたいのに周りに観た人がいなくて大変だったのは、今にしてみれば良い思い出です。

ワンポイント心理学 ~感情バイアス~

 感情バイアスとは、感情に左右されることで、間違った意思決定や判断をしてしまうことを意味しています。自分の好き嫌い、過去の経験や記憶などにより良い印象を抱いているものを過大評価し、悪い印象を抱いているものを過小評価する傾向があります。自分の好きなタレントが出ているCMの商品がすごくよく見えたり、逆に一度接客態度が悪かったお店には二度と行きたくなくなったりするというのもその一例です。とりわけ、悲しみ、嫌悪、罪悪感、怒りなどを感じていると、意思決定や判断が歪みやすいということが知られています。
 本作では、裁判において特に検察側が容疑者の人間性の部分で望ましくない情報を並べることで、陪審員に悪い印象をもたせるように働きかけていることが分かります。陪審員も人なので、当然感情に左右されることが大いに考えられます。
 感情にとらわれずに意思決定をするためには、前回の記事で書いたクリティカル・シンキングは一つ有効な手段となります。第三者的な視点で物事を捉えることができれば、自分の感情や立場にとらわれずに意思決定や判断を行うことができます。

前回記事はこちら。

sputnik0107.hatenablog.jp


 ただし、意思決定において感情が必ずしも邪魔者というわけではありません。我々の過去の経験や記憶が新たな意思決定においてうまく活用されることもあり、その際に、感情は記憶のトリガーとなりやすいのです。場面に応じてうまくコントロールすることが重要なのですね。