映画最高!(Cinema + Psycho)

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映画「ボーはおそれている」感想 ―アリ・アスター監督作品における母親像と不安障害―

 

「ボーはおそれている」概要と感想

「ヘレディタリー/継承」「ミッドサマー」のアリ・アスター監督が、「ジョーカー」のホアキン・フェニックスを主演に迎えた異色のオデッセイ・スリラー。
神経症で極度の不安を抱えるボー。ある日、母親が怪死したという連絡を受ける。状況がよくわからないままアパートを飛び出したは良いが、次々と予測できないトラブルに巻き込まれ・・・。

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

 アリ・アスター監督は、出世作の「ヘレディタリー/継承」では、祖母の他界をきっかけに家族に生じる異変を描き、「ミッドサマー」では、家族を失って傷心の主人公が訪れたスウェーデンのとある村で繰り広げられる夏至祭の恐怖を描いています。
両作品に共通して、家族の喪失、そして安息の場所であるはずの家を恐怖の根源としているということが挙げられます。

 本作でも父親がすでに他界していて、さらには母親が怪死したという連絡が入ることが物語の冒頭にもなっています。ボーの帰省の過程で、母親との関係が良好なものではないことが明らかになっていき、本作もまた過去のアリ・アスター作品に通じる部分があります。

本作は明確な章立てこそありませんが、4部構成になっています。

 冒頭のパートはボーの暮らすアパートとその周辺での出来事が描かれています。何も音を立てていないのに隣人から怒鳴られ腹いせに大音量の音楽を流されてしまう、服用した抗不安剤を水なしで飲んでしまい、ネットで調べたら水なしで飲むと死に至る危険性があると知り、あわてて水を飲もうとするも断水で、決死の覚悟で向かいにあるコンビニエンスストアに水を買いに行く、その隙にホームレスに家を占拠されてしまう・・・という悪夢の連鎖が映し出されます。
ただこれが現実かどうかは明示されません。
 ちなみにボーがセラピストから処方された”Zypnotycril”という抗不安剤?は実在しない架空のものになっています。また水を飲まずに服用すると思ったような効能が得られないことはあっても、死に至るまでの副作用があるというのは考えづらいですね。
 また、どう考えてもボーの暮らす町がディストピアすぎるのでやはりこの章の大半はボーの妄想や強迫観念と捉えるべきでしょうが、この描写がアリ・アスター監督の真骨頂といったところで本作の中でも一番インパクトがあったように思います。

 2つ目のパートは、錯乱するボーを車で轢いてしまった女性グレースの家のシーンです。
グレースと外科医の夫ロジャーの家で怪我の回復のため療養することになり、ここでは一見安らぎの空間のように見えますが、この家の娘のベッドをボーが占有してしまっている、長男が戦争で亡くなっている、長男の軍隊時代の仲間で今は夫婦が面倒を見ている退役軍人のジーヴスは戦争後遺症で心神喪失状態にある・・・と不穏な空気を感じさせます。そしてグレースに「チャンネル78を見て」と告げられます。

 3つ目のパートは、グレースとロジャーの家を飛び出して迷い込んだ森で、「森の孤児たち」という演劇グループの舞台を観劇するシーンです。
このシーンでは、観客だったボーがいつしか出演者になっているという客観と主観が混ざり合っていきますが、さらにはアニメーションまで登場してくるカオスぶりです。
このアニメーション部分は昨年日本で公開されたチリのアニメ映画『オオカミの家』の監督クリストバル・レオンとホアキン・コシーニャが手掛けているそうです。

そして最後のパートでようやく母の家にたどり着くということになります。

 各パートの終わりでボーは意識を失っているため、この全てがボーが体験していることなのか、妄想や幻覚なのか、見ている側もわからないままに映画は進んでいきます。
監督自身は「ロード・オブ・ザ・リング」になぞらえていますが、精神世界をも含んだ旅路はまさに悪夢でしかありませんね。

 本作は監督の念願の作品だったそうで、スケール感で言えば過去2作を圧倒している部分もありますが、現実とも幻覚とも分からないような悪夢のロードムービーになっているため、見ている側の精神状態も問われるような気がします。メンタルがやられているときには絶対に見ないほうがいいですね。
 しかも180分という長尺で内容が母親との確執が軸として描かれているため、いわば家族(それも自分がよく知らない人物)の愚痴を延々と聞かされているような印象があります。
 アリ・アスターは「ヘレディタリー/継承」より前に本作の構想や脚本があったそうですが、当時のプロデューサーに却下されて、それがようやく実現したということですが、確かにこれがデビュー作だったらここまでやりたい放題に作品も作れていなかったでしょう。また本作の興行収入が芳しくないのもそういった原因があるのかもしれませんね。

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ボーと母親の関係性について(ネタバレあり)

 ボーと母親のやり取りは冒頭では電話でのみ行われていますが、そこでは「愛してる」とも言っていますし、愛情を抱いていないわけではなさそうです。ただし、それ以上に母親の存在を"おそれている"という印象が強いです。映画の中ではボーの少年時代は回想で出てきますが、青年時代は描かれていないため、その間にボーと母親の間に何があったかは分かりませんが、家を出て一人で暮らししている、現在は重篤な不安障害を抱えて定期的にカウンセリングを受けている、ということから母親から離れなければならないと考えて行動に移した結果として現在があるとも考えられます。
 母親に支配されているという点では昨年公開(製作は1994年ですが)になった「悪い子バビー」とも共通していますが、完全に監禁状態だったバビーと比べると、少なくとも家の外に出て一応は生活できているという時点ではボーの方がまだマシかもしれません。外の世界に出ていてもなお母親の支配から逃れられないという方が嫌かもしれませんけどね。

 一方で母親からボーに対する思いはどうなのでしょう。本作の冒頭ではボーが母親の胎内から出てくるところが描かれています。この間に母親らしき女性のセリフからも、母親にとって赤ちゃん(ボー)は愛情の結晶などではなかったのでしょう。ボーの母親は大企業の社長で、立派な屋敷に住んでいることからもビジネスマンとしては成功者であることが分かります。それゆえサクセスロードを歩む上での足かせとなるとでも思ったのかもしれません。これはすでに亡くなっているボーの父親に対する意識でもそのように感じられます。
 それでもわざわざボー(Beau)という名前をつけていますし、語源では美を意味するということからも全く持って愛情を持っていなかったとは限りません。少年時代の回想では、厳しさこそあれどクルーズ旅行に行っていますので、虐待やネグレクトといったこともなかったと思われます。ただ帝王学ではありませんがいずれは自分の後継ぎとして考えている部分もあったとすれば、かなり厳しく教育やしつけを受けたことは容易に想像できますね。

 


母親の存在の神格化(ネタバレあり)

 このようにボーにとって母親は愛情以上に畏怖の存在となっているわけですが、映画のそこかしこに母親の支配下であることを示すサインが出てきます。
 映画の最初の配給会社や制作会社のロゴなどが表示される段階で、一緒に「mw」というロゴが表示されます。これは母親のモナ・ワッサーマンのイニシャルで、おそらくは母親の企業のロゴなのでしょう。この映画そのものが母親の支配下、管理下にあることを示しているという要素になっています。
 また、母親の家にでかでかと飾ってある母親の肖像画が出てくるのですが、これが多くの人間(母親の会社の従業員)でモザイクアートのように構成されていて、その写真の中には最初に助けてくれたロジャー、住んでいる町でひときわインパクトのあった全身タトゥーの男、カウンセリングをしてくれているセラピスト、そして、少年時代の回想でボーの初恋の人として描かれているエレインなどがいます。一見ボーは独立した生活を送っているように見えてその支配下にあることを示しているばかりか、初恋相手だったエレインすらもどこからか見つけ出して従業員にしているというのは、単なる偶然ではなく、ボーへの影響力を考えてのことだと思うと戦慄してしまいます。
 さらに、ボーの住む町での看板に書かれている「Jesus sees your abominations(直訳的には、神はあなたの忌まわしさを見ている、といったところでしょうか)」を始め、神の啓示のようなメッセージも映画に頻繁に登場します。これまで書いてきたようにボーの母親がこの映画そのものを支配しているとしたら、ボーの母親=神という捉え方も不自然ではないので、これらのメッセージもそのままボーの母親からボーに向けてのメッセージとも受け取れます。他にも、ボーの浴室にある写真、ボーが母親の手土産にしようとしていた聖母子らしきものをかたどった陶器の置物、そして母親の家にある巨大な女神像などがそれを暗示しています。
 この母親の存在の神格化がラストシーンをまさに神の審判のような構図につながっていきます。先述したモザイクアート、そしてこの神視点での描き方という部分では、ジム・キャリー主演の「トゥルーマン・ショー」を思い出します。

 

水(water)は人を生かしもするが、殺しもする。(ネタバレあり)

 本作では水もまた重要なモチーフになっています。冒頭のカウンセリングのシーンでボーが水槽を眺めているのに始まり、ボーの住むアパートが断水状態になっていて(ボーの妄想かもしれませんが)、水と一緒に服用しないといけない薬を水なしで飲んでしまったことで、意を決して外に出て向かいのコンビニエンスストアに向かうという展開になります。ついには入浴中に浴室の天井に張り付いていた男が落ちてきたことでボーは裸のまま外へ飛び出してしまいます。
 少年期の回想シーンでもエレインとの出会いのシーンで、クルーズ船のプールで水死体が上がっています。そしてラストのシーンはボーが舟で漕ぎ出した場所になっています。
 モナの(ボーのでもありますが)苗字のワッサーマンのワッサーもドイツ語で水という意味で、映画全体を通じて水との関わりが表現されています。水はもちろん生きていくためには不可欠ですが、水死、溺死など命を奪う存在ともなり得ます。そしてやはり羊水のイメージもあります。生まれてくるシーンの回想から始まり、ラストもやはり羊水をイメージしていると言えるでしょう。羊水に始まり羊水に終わる冒険がまさに本作に意味するところだったのかもしれません。

 とまあ難解な部分も多いですが考察のしがいがあるのがアリ・アスター監督作品に共通するところでもあります。本作の場合それ以上に不快感を増幅させるようなシーンが続くので、アメリカでも賛否両論だったのは大いに理解できるところです。アリ・アスター監督自身の体験をベースに作られているということで、どんだけ嫌な家庭で育てられたんだよ、と思わないでもないですが、プレミア上映では母親も招待したとのことで、実際にはそこまでの確執はあるわけではないかもしれません。アリ・アスター監督の次回作は新型コロナウイルス感染拡大下のメキシコを舞台にした西部劇(!)ということでまたどのような世界が描かれるのか楽しみにしたいところです。
 

ワンポイント心理学 ~不安障害~

 主人公のボーに対して明確な診断名を下すシーンはなかったかと思いますが、不安障害(および注意欠陥・多動性障害(ADHD)の併発)という印象です。不安障害は、心配や不安が過度に感じることでその対象や状況を回避しようとすることで日常生活に支障をきたすものの総称です。突然極度の不安を感じて動悸やめまい、過呼吸などの症状が現れるパニック障害、人前や他者がいる場所で極度に緊張して発汗や震えなどの症状が現れる社会不安障害(以前は対人恐怖症という呼称でした)、手をいくら洗っても汚れが気になる、外出時に部屋の鍵をかけたかが極度に気になるといった強迫性障害などが代表例です。本作の1つ目のパートであるボーの住む町での描写はその極端な例であると言えるでしょう。
 ただ不安や心配、緊張というのは脅威から自分の身を守るための信号であり、多かれ少なかれ誰もが抱く感情でもあります。それゆえ、どこからが障害となるのかという線引きが難しく、とりわけこの境界線近くにいる人は周囲から理解されにくいなどの二次的な問題が生じることもあります。本作はかなり極端な例だとは思いますが、このあたりは周囲の理解やサポートが重要になってくると言えます。このあたりは瀬尾まいこ原作の小説で同時期に公開された「夜明けのすべて」でも描かれています。次回はこちらの作品のレビューをする予定です。