映画最高!(Cinema + Psycho)

映画に関するあれやこれやについて綴っていきます。映画の感想をメインに、映画にまつわるエピソード、そしてワンポイント心理学を紹介していきたいと思います。

映画「オッペンハイマー」感想 ―「オッペンハイマー」は戦争映画でも反戦映画でもない―

 

オッペンハイマー」概要と感想

 「ダークナイト」「TENET テネット」のクリストファー・ノーラン監督が、初めて原子爆弾の開発に成功し、"原子爆弾の父"と呼ばれた物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描いた政治ドラマ。
出演は、キリアン・マーフィー、ロバート・ダウニー・Jrエミリー・ブラントマット・デイモン、フローレンス・ピュー、他。

 第96回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞、助演男優賞編集賞、撮影賞、作曲賞の最多7部門で受賞を果たしています。

 

自分のX(旧Twitter)に投稿した一言感想はこちら。

 

 クリストファー・ノーラン監督作品と言えば、まずは長編2作目の「メメント」が衝撃的でした。10分間しか記憶を保つことができない主人公が、ポラロイド写真と自身に刻んだタトゥーを手がかりに、妻を殺した犯人を探すという異色のサスペンスで、難解さがありつつも10分間の記憶の再生を追体験させるという観るものを惹きつける展開には驚きました。そして、「ダークナイト」ですね。コミカル要素と遊び心の強かったティム・バートン版、エンタメ性を追求しすぎたジョエル・シュマッカー版ときて、シリアスな世界観、そして映画史に残るヴィランとも言えるジョーカーを生み出したのは「バットマンシリーズの新機軸となりました。その後、「インセプション」「インターステラー」そして「TENET テネット」と、ややもすれば哲学的で難解なテーマの作品を壮大なスケールで描ききった作品を輩出し、かつ興行収入的にも好成績を残してクリストファー・ノーラン監督の黄金期とも言えるでしょう。
 その一方で、アカデミー賞は「メメント」「インセプション」で脚本賞ノミネート、「ダンケルク」で監督賞にノミネートされるもいずれも受賞ならず、それ以外の作品ではノミネートもされないなど、大ヒットメーカーに対するやっかみなどとも揶揄されていた中での本作の登場となりました。オリジナルのエンターテインメント作品の多い中で、歴史上の事実を元にした作品ということでは「ダンケルク」以来となります。

 

TENET テネット(字幕版)

TENET テネット(字幕版)

  • ジョン・デイビッド・ワシントン
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 政治ドラマであってもクリストファー・ノーラン監督作らしく、難解な構造を持っています。本作では3つの時間軸と場面が並行して描かれていて、ロバート・オッペンハイマーキリアン・マーフィー)が安全保障、機密保持に関わる聴聞会でヒアリングを受けるシーン、その過程でオッペンハイマーのこれまでの生い立ちや活動を回想するシーン、そして原子力委員会の長官ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr)が商務長官になるステップとしての公聴会におけるヒアリングのシーンで構成されています。例によって時間軸も交錯していくのですが、一見して外観の似ているオッペンハイマー聴聞会とストローズの公聴会はそれぞれカラーとモノクロで描きわけられているので、それほど混乱はしません。そして3時間という長尺ですが、それも特に苦痛と感じることはなく、それだけ内容的なボリュームは十分であると言えます。ただそのほとんどがオッペンハイマー(とストローズ)の人物描写に当てられているので、どのようなジャンルの作品でも映画としての高い娯楽性、エンターテインメント性を誇っていたこれまでのノーラン監督作品と比べると地味な印象は否めません。とりわけ、昨年のバーベンハイマー騒動や広島・長崎のシーンが映像として描かれていないことへの批判なども相まって、公開が1年も先送りにされてようやく日の目を見たと思っていたら、手のひらを返したように絶賛の嵐となっている風潮に、どうにも違和感を覚えてしまいます。まあ、あまのじゃくと言われればそれまでなんですが・・・。

"バーベンハイマー"騒動について

 昨年アメリカで「オッペンハイマー」と同時期に公開された「バービー」。この全く対局と言っていいほど真逆の映画が同時にヒットしたこともあり、アメリカではこの2作品をイッキ見するということで2つの映画のタイトルをくっつけた造語、"バーベンハイマー"が生まれ、一つのムーブメントとなりました。そこから派生して、2つの映画のコラ画像SNSで拡散されネットミームとなってしまったのは仕方がないにしても、それに映画の公式SNSまで乗っかってしまったのは看過できないものがありました。とりわけ、人種差別や性差別などのセンシティブな問題についてともすれば過剰なまでに配慮をしてポリティカル・コレクトネスの姿勢を貫いているハリウッドにおいて、自分たちと直接的に関わらない問題についてはここまで無頓着なのかと思ってしまいました。
 とはいえ、日本でもヒトラーの演説に勝手な日本語を当てたコラ動画がネットミーム化しているなど、まさにお国が変わればといった部分があるのも事実です。感情的になって公開反対の運動なども一部では上がっておりましたが、自身が観る、観ないの判断をするのは勝手ですが、他に観たいと思っている人から機会を奪う権利はないのではないかと思います。クリストファー・ノーラン監督作品がファンも多いでしょうし、自分もその一人です。無事に劇場で鑑賞できたという点で、公開に尽力された方々には敬意を表したいです。

 

オッペンハイマー」は戦争映画でも反戦映画でもない

 「オッペンハイマー」では広島や長崎に原子爆弾が落とされたシーンが描かれていないので良くないという批判も公開前にはかなり多かったように思います。ただ本作を観れば分かりますが、本作は戦争を描いた映画ではありません。戦争の時代に生まれた天才物理学者の物語で、そんな彼らを利用し翻弄する政治の物語なのです。オッペンハイマーに関わるシーンはほとんどすべてがオッペンハイマーの主観であるため、彼自身は原子爆弾投下の瞬間を見ていないですし、その事実も他のアメリカ国民と同様ラジオで聞いたのですから、目の当たりにしていないのは仕方がありません。ただ、原子爆弾投下の被害を"情報"として入手したあとで、その後の世界各国による核開発の激化を恐れて、各開発の反対派となっていくのですが、この部分が映画で描かれていないのは残念でした。時間軸で言えば、聴聞会における回想シーンと地続きになるはずなのですが、この流れで描かれているのは原爆の父と呼ばれTIME誌の表紙を飾ったり、トルーマン大統領と面会をしたりするところで切れています。そこから聴聞会が開催されたのが1954年なので、この間の出来事がほぼ描かれていないことになります。これは本作が戦争映画でもなければ反戦映画でもなく、オッペンハイマーとストローズという2人の人物を対照的に捉え、彼らがいかにして脚光を浴び、そして表舞台から消えていったかを描いた政治ドラマであることを示しているのかもしれません。

 

オッペンハイマーとストローズ

 2人は似ている部分もありながら実に対照的な人物として描かれています。ともにユダヤアメリカ人ではありますが、裕福な家庭で生まれケンブリッジ大学に留学までしているオッペンハイマーに対し、労働者階級で裕福とは言えなかった生い立ちのストローズと境遇がまさに対照的で、何不自由のない環境で存分にその才能を開花させていったオッペンハイマーの生まれ持ったかのような華々しさは、叩き上げで銀行営業マンとして手腕を発揮し、その後政治力を発揮してようやく立身出世を果たしたストローズからすればそれだけで十分にやっかみの対象となったことでしょう。
 この構図で思い出したのが「アマデウス」です。凡庸なサリエリと天才モーツァルトの姿を描き1984年の第57回アカデミー賞を受賞している作品で、サリエリはかつて父親の反対で音楽家になれなかったこと、そんな折、自分の眼の前に天才モーツァルトが登場し、その才能を誰よりも理解してしまったがための嫉妬や苦悩を感じていたことなど、本作のオッペンハイマーとストローズの構図に非常によく似ています。オッペンハイマープリンストン高等研究所の所長になったのはストローズの推薦があったからでしょうし、まさに彼を見出し、彼を磨き上げ、そして彼を叩き落としたというところまで、サリエリモーツァルトの関係性とぴったり当てはまります。そうなると本作が戦争映画でなくても、この2人の人物の政治ドラマとして見ごたえのある作品にはなりそうですが、そこまで入り込めなかったというのが正直な感想でした。その理由として、1点目に、本作の構成の問題でオッペンハイマー聴聞会とストローズの公聴会がパラレルに描かれているため、「アマデウス」のように2人の物語としては昇華していきません。そして、ストローズのキャラクター的に、オッペンハイマーと並べて描くにはどうしても見劣りがしてしまうので、ストローズのパートにやや時間を割きすぎている印象は否めませんでした。
 もう1点、肝心のオッペンハイマーの方もその功績はさておき一人物としては決して魅力的には映っていません。その点については次の章で書いていきたいと思います。

アマデウス(字幕版)

アマデウス(字幕版)

  • F・マーリー・エイブラハム
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オッペンハイマーの人物像

 本作に出てくるオッペンハイマーの回想の最初は、ケンブリッジ大学に留学したは良いが、ホームシックと実験物理学が肌に会わずに精神的に病んでしまうところです。しかし、そこで理論物理学者のボーアと出会いゲッティンゲン大学に移籍し、そこで博士号を取得し、アメリカに戻ってきます。そこでは教育者としてのオッペンハイマーの姿が垣間見えるのですが、内容が難解で最初は学生が集まらないものの徐々に学生が増えていき、オッピーという愛称でも親しまれるようになっていきます。優しくユーモアもありながら少し天然なところもある、というのがオッペンハイマーのキャラクターという印象でした。お人好しなのか無頓着なのか、理想的な思想に共感できるという理由で共産主義者とも気軽に関わってしまっていたことが、のちの聴聞会でのソ連スパイ疑惑につながってしまうのですから、なんとも脇の甘さというのも感じます。
 その後、グローヴス大佐(マット・デイモン)によってマンハッタン計画のリーダーに任命され、ニューメキシコ州のロスアラモスに研究所が設立されると、多くの研究者、軍人、家族もが関わった巨大なプロジェクトとなっていくのにつれて、オッペンハイマー自身の判断で研究をどうこうすることができなくなっていきます。この頃には純粋な科学者でもなく、かといって強力なリーダーシップを発揮する指導者でもないというどっちつかずの存在のように映ります。
 そう感じる要因として、原子爆弾の開発中にナチス・ドイツが降伏したときの判断があります。この時点では原子爆弾は完成しておらず、オッペンハイマー次第では、開発を中止することもできたのかもしれません。また、次なる目標が日本に定められたとき、あくまでも抑止力として原子爆弾を保持するのであって、実際に投下されることはないだろうというように思っていた節もあります。節目節目で明確な判断を下しているという印象が伝わってきませんでした。むしろそうした責任から逃れていたかのようにも思います。
 このように、オッペンハイマーは良くも悪くも人間味にあふれているというか、天才的な頭脳を持った普通の人という印象です。先述した「アマデウス」のモーツァルトのような奇行が目立つでもなく、劇中にも出てくるアインシュタインのような異端の雰囲気もないというところもその印象を助長しているように思います。そのような人が多くの人を死に至らしめた原子爆弾を作り上げてしまったのですから、まさに、アメリカン・プロメテウスそのものと言えるでしょう。

 

オッペンハイマーアインシュタイン

 原子爆弾の父と言えばオッペンハイマーのことを指しますが、アメリカがマンハッタン計画を開始するきっかけとなったのはアインシュタインです。アインシュタインがシラードとの連名で、当時のアメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトに送った書簡に、「ウランが将来的に強力なエネルギー源として活用できるようになること、ドイツが国家単位でウラン開発に着手していること」などが記載されています。実際にはドイツでは兵器化できるレベルでの開発を進めることはできなかったわけですが、これがきっかけでマンハッタン計画が着手され、アインシュタインも後にこの書簡については後悔の念を持っていたと言っています。
 このように、原子爆弾開発のきっかけとなった一人はアインシュタインであるわけですが、それでいてマンハッタン計画には直接関与しておりません。もし原子爆弾の開発に成功した場合、平和主義者であるアインシュタインがその投下を反対するであろうことを見据えての判断だったようで、オッペンハイマーに白羽の矢が立つこととなります。結果的には原子爆弾の開発に成功し、広島、長崎への投下が実現したのですから、アメリカ政府の目論見は当たったと言えるでしょう。
 同じユダヤ人でありながら、ドイツで生まれナチスの迫害によってアメリカへ亡命してきたアインシュタインと、アメリカで生まれ裕福な家庭で育ったオッペンハイマー、この出自の違いも影響しているのかもしれませんが、もし原子爆弾が完成してしまった場合には、その仕様については世界が共通で認識をして管理をすべきだと考えていたアインシュタインに対し、オッペンハイマーアメリカが保有し管理することで抑止力とすべきと考えていたのも実に対照的です。このあたりの視座の違いもまさに天才らしい天才であるアインシュタインと天才的な頭脳を持った凡人オッペンハイマーという印象を抱かせるものでした。
 と、鑑賞直後は思っていたのですが、時間を置いて原作にも触れてみて自分の中で少し捉え方が変わってきました。オッペンハイマーゲッティンゲン大学時代やロスアラモスで多くの研究者と交流をしている中で気がついたのではないでしょうか。もし仮にこのタイミングで自分たちが原子爆弾の開発に成功しなくても、いずれ誰かが完成させるのではないかということを。そう考えると自分たちが他の国、とりわけ当時のドイツをはじめとする敵性国家よりも先んじて原子爆弾の開発に成功することで、それ自体が相手国への牽制となるだけでなく、仮にその後他の国が開発に成功したとしても対等の関係になるのではないかと考えることもできるわけです。それでいてその後のさらなる威力が想定されていた水素爆弾開発には明確に反対の意思を表明したというのも大いに頷けます。
 映画を通してみると、原子爆弾の開発に成功したのは、オッペンハイマーの力ももちろんあるのでしょうが、それ以上にチーム・ロスアラモスの成果という印象が強くなります。孤高の天才といった雰囲気が感じられないのもそうした環境が影響しているのかもしれません。オッピーという愛称で親しまれていたこともそうですが、原作ではさらにオッペンハイマーとその仲間たちの交流が多く描かれている印象があります。映画での聴聞会では、ソ連のスパイと疑われているのにも関わらず、相手の意見に強く反論したり、自分の潔白を主張したりという印象がほとんどありません。それには仮にロスアラモスのスタッフに本当にソ連のスパイがいたとしてもその誰かを疑いたくないという思いもあったのかもしれません。アメリカ政府も水素爆弾開発の反対派として単純に追放できない背景には、彼の考え方や主張の正しさだけではなく、それ以上に彼に賛同する多くの研究者と対立したくないという部分もあったのでしょう。そしてもしオッペンハイマーがその可能性までも見据えてしたとしたら、やはり彼は疑う余地のない天才だったとも言えるのかもしれません。先にも書きましたが、「オッペンハイマー」を戦争映画や反戦映画と捉えると、その描き方としては不十分だったり不明瞭だったりする部分があると感じるのですが、これが一人の天才の人間ドラマであり、政治のドラマであると考えたときには、非常に完成度の高い優れた作品であると言えるでしょう。

 

ワンポイント心理学 ~後知恵バイアス~

 もしもオッペンハイマー原子爆弾を開発しなければ、もしもオッペンハイマーのリンゴを教授が口にしていれば、など、歴史上のifを考えてしまうことはよくありますよね。特に日本人であれば、広島と長崎に原子爆弾が落とされない世界線はなかったのだろうかとは考えずにはいられません。何らかの出来事が発生したあとで、その出来事が発生する前にどれぐらい予測できたかを問われると、その予測可能性を実際よりも高く見積もることが知られており、これを後知恵バイアスといいます。これは、すでに実際に起った出来事として認識されてしまっているために、それ以外の可能性を想定しにくくなり、結果的にその発生以前の段階でも予測できていたのではないかと考えてしまうことで生じると言われています。オッペンハイマー原子爆弾を完成させたとき、アメリカ政府が原子爆弾を日本に投下する可能性を十分に想定できたのではないかと思ってしまうのですが、これもまた後知恵バイアスであることを否定はできません。このようなバイアスが存在する中で、原子爆弾を投下された唯一の国である日本人としては、いかにすればあの事態を回避できたのかより、今後第二の被爆国を生まないためにはどうすればよいかを考える方が建設的なのかもしれません。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルガザ地区の問題と、現在の国際的な戦争・紛争に核保有国が関わっているというのもまた悲しい皮肉です。いくら天才的な頭脳を持っていようとオッペンハイマーも一人の人間ですし、トルーマンヒトラープーチンもまた然りです。その一方で、広島や長崎で、ウクライナイスラエルガザ地区で不条理に命を落とした人々もまた一人の人間です。一人ひとりの人間をお互いに尊重し合うことこそが、戦争をなくす一つのきっかけとなるのかもしれません。戦争や紛争がなくなり、すべての人が平和な日常を取り戻せるよう、願ってやみません。